いつもより、早い冬が|訪《おとず》れたその年−つ。  黄白な雪が、鷲毛《がも∴ノ》のようにはらはらと扱っていた。  簡素な墓標が林立するなかで、子供は一人きり黙々《一Uノ1一Uノ\》と最後の墓標をつき終えた。  真新しい木肌《きはだ》がのぞく墓標の数は、二十と少し。  すべての音をのみこむ白き死の|静寂《せいじゃく》のなかで。  彼は|膝《ひざ》をつき、ゆっくりと仰向《あおむ》くと、その際《ひとみ》に白い天を映した。  |一切《いっさい》の椀《けが》れを許さぬ冷ややかな白銀の洗礼を、彼は|黙《だま》ってその身に受けた。    −そうと知りながら、彼は罪を犯《おか》した。   ただ、己《おのれ》のためだけに犯した罪。  冷酷《れいこ・\》なる白の女王が支配する、しんしんと深く降りつもるあの光景を、影月《えいげつ.》は忘れない。  そして誰《だれ》一人知ることなく、ひそやかに息絶えた、小さな小さな山深きその村を。                                                                               。.Y? ’                         �         磯         �  �秋があっけなく過ぎゆきたせいで、確かに例年より山菜や山果実の収穫《しゅ∴ノかく》はずいぶんと少  なかった。|普段《ふ だん》は高い標高に住むユキギツネまで、餌《えき》を求めて里に下りてきたくらいだった。  老人ばかりの西華《セいか》村だったけれど、体に気をつけて、お互《たが》いに助け合えば|充分《じゅうぶん》冬を組《二》せるはずだった。食卓《しょくたlノ、》のささやかな贅沢《ぜいたく》は、雪解けまでの数ヶ月、ちょっぴり|我慢《が まん》をすればいい。   いつもと違《らが》うのはそれだけだと思っていた。  また、同じように|優《やさ》しい春が巡《めぐ》ってくると、何の疑いもなく彼は信じていた。  ! けれど。 「頑張《がんげ》って! 頑張ってください1——!」  目の前に横たわる老人が、突然《しア 「ぜん》びくびくと痙攣《Hい才l・八》しだした。その腹は太鼓《たい二》のようにふくれ、くるぶしにはひどい浮腫《も! 、・ル》ができている。肌は全体的に黄味を帯び、白日の細分までが黄色く濁《にご》っている。掌《この!?lら》には赤い斑《は人》ができ、手の指は鈎《かぎ》のように屈曲《・、 「きL一ノ、》したまま、凍《二お》ったように動かない。煩《ほお》もばんばんに腫《1》れ、激しい息切れとともに何度も嘔吐《おうと》する。けれど吐《こ》きすぎて、もう黄色い胃液しかでなかった。十になるかならないかほどの子供は薬をすっていた手を正め、少しでも楽になれるよう、体を横向きにさせて背中を撫《らh》でようとした。  突然、その手を掴《 「一か》まれた。いや、鈎のように曲がった手を、腕《うで》に引っかけられたのだ。老人の意識は、もうないはずだった。  けれど、その日は、しっかりと子供を見つめていた。                                                                                                                               ょr 「……すまねぇなぁ影月……こうして看取《ノー」》ってく、お前が…いちばんつれぇのになぁ……」   死を|覚悟《かくご 》してなお、優しい優しい声だった。   子供の日から、涙が《なみ〆.》あふれてしたたった。    …逝って、しまう。彼《ヽ》も《ヽ》、ま《ヽ》た《ヽ》。 「……逝か、逝かないで…当・」   いの   鈎のように曲がった手を握りしめ、子供は祈るように自らの小さな額に押しっけた。   すがりつくような魂切《たよぎ》る|絶叫《ぜっきょう》に、老人は願いを叶《かな》えてやれないことを心の中で詫《わ》びた。   やっと笑うようになった幼い彼に、こんな風に残酷《ぎんこく》な思いを味わわせてしまうことを詫びた。   二十数名いた村人のうち、残るは自分と村長《むらおさ》のみ。昔取った杵柄《きねづか》で、村一番体力のあった自分でさえ灯火《ともしげ》が尽《つ》きようとしている。……最後に発病した村長《むらおさ》ももう、長くないだろう。   堂主《どうしゅ》がいまだ発病してはいないことだけが、|唯一《ゆいいつ》の一救いだった。   彼さえも|倒《たお》れたなら、ズタズタに傷ついた影月の心に、もう二度と光は射《さ》さない。 「……なあ、おめぇ、|偉《えら》いお役人になんだろ。いつまでも泣いてねぇで、ちゃんと勉強しろや。なっl・……おめぇとご堂主がこの病に確《・乃ムり》んなかったことだけは、天に感謝すらぁ」   原因不明の奇病《きげよう》で最初の村人が倒れてから、わずかふた月。堂主と影月が不眠《ふみん》不休で駆《か》けずりまわり、どれほど力を尽くしてくれたか、村の誰《だれ》もが知っている。一人、また一人と倒れるなかで、誰もが遺寺《一、・り》の堂主と幼い子供の無事を祈って死んでいった。   余所者《よそもの》で、病に躍らない二人を、誰一人責めることはなかった。   病に躍らなくて良かったと、誰もがR聴後に笑って死んでいった。  そして、老人《・秒..れ》もまた、優しい優しい道寺の堂主と、彼が連れてきた幼い子供の無事を祈る。 「おめぇとご堂主にゃあきっと、仙人《せんにん》様のご加護があんだよ。生き残ってやることがあんだろぅて。心配すんな。先に逝って、わしらがl冥府《めいふ》のお役人をしっかり見張っててやらぁ……」その言葉を最後に、彼の命の糸が、死の鎌《カl上》によってぷつりと断《た》ち切られる。 「   −   つつ!」  死にゆく|間際《ま ぎわ》まで、こうして彼を心配してくれる声を、どれほど聞いたことだろう。  影月は、血の繋《lつ一な》がった親兄弟に殺されかけたHのことを、今でも覚えている。  感情の消えていく親兄弟の顔を。自分を殺そうとした父の顔を。  あれからどれほど優しくされても、心の奥のそのまた奥で、本当はずっと、人が怖《こわ》かった。   けれど。   −愛してる。  影月は初めて、その言葉の意味を知った。  愛してる。愛してる。愛してる。  親兄弟にさえ疎《、つ.し一》まれた自分を丸ごと受け入れてくれた西華村の、誰もを。  愛して、そして喪《うしな》ったのだった。 「堂、王様!」   泣きながら村長《むらおさ》の家に飛びこむ。   そこには、最後まで看病しょうとした堂主様の手を振《ふ》り払《はら》う、老婆《ろうば》の姿があった。    「源《げん》も、逝ったかい……」   飛びこんできた子供に、老婆は小さく苦笑いした。 「あたしより先に逝くなんぎ情けないねぇ。さぁて、あたしももうそろそろだ。さっき若堂主にも言ったが、影月や……あそこに壺《つぼ》があるね」  老人と同じように鉤爪《かぎづめ》のごとく屈曲した手を必死で伸《の》ばす。 「……村のみんなから集めたお金だよ。ちまちまみんなで貯《た》めてたんだが、まさかこんな早くにそろってくたばるとは思っちゃおらなんだからねぇ。あんたが国試を受ける歳《ト】し》までに、しっかり大金になって|驚《おどろ》かせるはずだったんだが、だいぶん予定が狂《くる》ったよまったく……」  せいぜい一回分しかないと、ぶつぶつと愚痴《くち》る。しかし額からは脂汗が滝《あぶらあせたき》のように流れ、激しい息切れでヒユーヒユーと喉《のご》が鳴る。それでも、老婆は平気なフリを装《よそお》って、影月と青ざめる若い堂主を見上げた。特に、情にもろすぎる水鏡道寺《すいきようごつじ》のお医者に、|溜息《ためいき》をつく。  口 「……あんたはねぇ、お医者のくせに人がおっ死《ち》ぬたびに懲《こ》りずに毎回ポロポロ泣いてさ、ず脚《り》うっと|呆《あき》れてたけど、訂正《ていせい》するよ。看病してるときは絶対泣かないからね。あたしがもう五千机ばかし若けりゃ、押し倒してたもんだよ」.微《かす》かに等王の唇が《くちげる》動くも、言葉は紡《つむ》がれなかった。|蒼白《そうはく》な顔で、祈るように山麓《きんろく》の方角をわ《⊥》ずかに見る。最後の最後まであきらめない青年に、老婆は笑う。  ァ……悪かったねぇ、器貝とやらが届かないうちに、みんなあっけなく逝っちまってさ。この村は在ることさえ知らないほうが多い、辺郡《へん!?》すぎる場所だからねぇ」黒《こく》州州都遠溝《えんルう》に史《・いけバ》が届いて返lつてくるまで、半年ほどかかる。しかも季節は冬�文がきちんと届くことさえないことを、本当は老婆は知っていた。最初の病人が半月で逝ったのを皮切りに、次々と村人が倒れていくのを見たとき、村長《も・りおさ》である彼女は静かに覚悟を決めた。   ……いつもより少しばかり、早い冬がきただけだと思っていた。   けれど、それは西華村の、最後の冬だったのだ。   降りやまぬ葬送《.て.�J・.」》の雪のl中で、この小さな小さな村は埋《.・1》もれ、人知れず静かに消えゆく。 「知ってるさ。あんたらが懸命《い・lれめい》に看病してくれたことなんてね。きっと都から良い薬や器具とやらが届くまであたしらが待っててやれたら、お前さんが必ず治してくれたこともさ」  初めて、若い堂主の顔がくしゃくしゃに歪《時が》んだ。   ある日ふらりと廃寺《はいじ》に住みつき、いつも笑《え》みを絶やすことのなかった若者。彼も、彼がある日どこかから拾ってきた子供も、年寄りしかいない村人は当然のように愛した。   未来という名の愛《いと》し子は、いま、老婆にしがみついて芦を上げて泣いていた。   その頭を撫でながら、老婆は昔々に曾祖母《そうそぼ》から聞いた話を思いだす。  ょ1……早い冬がきたときには、水の中から魔物《まもの》がくる……そう言ってたっけねぇ」   影月、と老婆は泣きじゃくる子供を見下ろした。 「ちゃんと勉強して、お頑張り。あんたならきっと国試にも受かるさ。あんたは一人じゃない。  たとえ若《ヽ》堂《ヽ》主《ヽ》が《ヽ》い《ヽ》な《ヽ》く《ヽ》な《ヽ》っ《ヽ》て《ヽ》も《ヽ》、あんたにゃもう一人の自分がいるんだからね」   聡《さと》い影月は、少し考えただけでその怖《おそ》ろしい事実に気づいてしまった。   ほじかれるように堂主様を見る。   異変はない。はずだった。  けれど堂主様は、小さく目を件《.わ》せた。   それだけで影月はわかってしまった。 「……嘘《.つ▼て》、ですよね……」 「影月……」   なだめるような|囁《ささや》きに、影月はいっぱいに目を見ひらき、ガクガクと震《ふる》えながら|叫《さけ》んだ。 「嘘! 嘘だ! 嘘でしょう!?ねえ堂主様!!」   つかんだ腕は、枯《か》れ木のように細かった。それは疲労《ひろ∴ノ》からくる細さではなかった。   薬に長《た》けた堂主様なら、白目まで黄色くなる黄垣《おうだ人》を抑《おさ》える薬も調合できたろう。激痛を和《やわ》らげる薬も、腹に溜《た》まった水を尿《によう》とともに排出《はいしゅつ》する薬も。自ら毎日その調合を繰《く》り返し、影月に伝授してくれたのは堂主様だった。村を|襲《おそ》った奇病は、それだけでは治らなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ、》だけで。 「坊《ぼう》やにだけは嘘をつくんじゃないよ、若堂主。あんたにゃほとほと参ったよ。いちばんポロポロの体をしてるくせに、気力だけで村を毎日毎日駆け回ってさ。けど世話をかけるのも、あたしで最後だ。あとは、一人残される坊やのために、すべての時間を使っておやり……」  老婆は目を細める。若い堂主が村にやってきてから過ぎた、優しい時間を思いだす。 「……楽しかったねぇ。人生の最後に、良い夢を見させてもらったよ」   それが、西華村最後の女長老の、最期の言葉となった。   ……たった二人きりになってしまった村で、ひたりひたりと死神が最後の首を狩《か》りにくる。   堂主様は、影月がそばにいるときは決して苦しい顔を見せることはなかった。   膨《ふく》れていく腹。浮腫《むく》んでいく足。肌《はだ》はHにHに黄色くなり、手の指が少しずつ曲がっていく。  薬でももはや抑えることはできず、石が坂を転がり落ちるように病状は急激に悪化した。 「……ね、影月、泣かないで。君の顔が見えないよ」   毎日毎日泣きじゃくりながら薬をつくってくれる愛しい子供に、|優《やさ》しく|微笑《ほほえ》む。 「県《二く》州に新しく赴任《ふにん》してきた州牧様に、文を書いたよ。国試を受けるときほ、それをもって樺《カし》州牧に会いに行きなさい。彼はきっと、私の代わりに君の後見になってくれるからね」  そして、『その日』ほ|訪《おとず》れる。   びくびくと痙攣《けいれん》しはじめた堂主様を見たとき、ついに影月の頭から何もかもが吹《こ》き飛んだ。   まろぶように遺寺の外へ駆《・カ》ける。   いつのまにか、腰《こし》まで降りつもった雪に足をとられ、頭から|倒《たお》れ込む。   白き死の女王が、誰《だれ》よりも大切な人を連れ去っていく。 「陽月《ようげつ》……つ!」   雪つぶてが|容赦《ようしゃ》なく頬《ほお》を打つ。荒《あ》れ狂う吹雪《ふぶき》のなかで、影月は声を限りに|絶叫《ぜっきょう》した。 「陽月、陽月、陽月——�!」                                                                                                               l——   ヽ   なぜ、自分だけが病に躍《ふりユ�》らないのか、影月は知っていた。   かつてF彼』と交《 �》わした契約《けいやく》では、長くて二十年−。だから。   いつか訪れるその日まで死ぬことのできない体《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を、呪《のろ》う日がくるなんて思いもしなかった。  誰かを置いていきこそすれ、たった一人で取り残される目がくるなんて。   幼い日、ただ本能のままに生きることを渇望《かつぼう》した。   けれど今は、『何のために』生きたいのか、彼は知ってしまった。   知っている。これは罪だ。他《はか》の人は見殺しにしたのだ。   それでも−。 「我値《わがまま》だって知ってる。僕の命を使っていい。だから、もう一度だけ、願いを−!」   いま、堂主様《あのひと》まで喪って、どうして生きていける。心が、世界が、光が消えて−。    −ただ自らの我健《おもい》のためだけに、影月はかつて命をくれた『彼』にいま再び願う。   そして、白き世界のなかで、罪は叶《かな》えられる。    ー十歳の影月が一人きりでつくった村人たちの墓標の中に、水鏡道寺の堂主、華眞《かしん》の名が刻まれることは、ついになかった。  弼胤   …   田幽  虎林《こりん》郡の東、千里《せんり》山脈の一つ、葉山《えいぎん》の裾野《寸その》に石柴《せさえい》村という村があった。柴山を越《こ》えた向こうは異《こく》州だが、仙人《せ人にん》たちの住処《すみか》と称《しょう》されるだけあって、千里山脈は一つとして人が踏破《とうは》できる標高のものはなかった。史上この山脈を越えたのはかの初代国王蒼玄《そうげん》のみと言われる。  もし千里山脈を自由に行き来できたなら茶《さ》州の交易はずいぶんと発展するはずだったが、そんなのは途方《とはう》もない夢物語に過ぎなかったし、村人たちは裾野を細々と|発掘《はっくつ》し、硯《すずり》に良いとされる柴山石を採るだけで|充分《じゅうぶん》満足していた。黒州側と違《ちが》って木材にたいした価値はないが、石は州都壊壇《こおん》に持っていけばなかなかの値が付いてくれる。山菜も山果実もそれなりに採れる。  田んぼや畑も糊口《こ二う》を賄《よかな》うくらいなんとかなる。村はなかなかにぎわっていた。  今年はいつもより早い冬が訪れ、山菜や果実はあまり採れなかったが、柴山石は|根性《こんじょう》を出して発掘すれば冬でも採ることができる。腕《うで》の良い狩人《かりうど》なら、高額取引できるユキギツネの皮をとることもできよう。|滅多《めった 》に里では見ないのに、どうしたことか今年はちらほら見かける。  暮らしになんら支障はないと、誰もが思っていた。  けれど、雪にまざれ、異変は確実に訪れようとしていた。         鴻魯㈳歯瀞 「若才《めいきい》さんは、あと十日ほどで境埴城に|到着《とうちゃく》するみたいですねー」   境埴城で、州牧宛《あて》の書翰《しよかん》に目を通していた影月《えいげつ》は顔をほころばせた。署才は虎林郡からの途《と》次《じ》、郵亭《ゆうてい》のあるところでは必ず生|真面目《まじめ》に文《ふみ》を出してくれるので、こっちとしても安心する。 「結構ゆっくりですけど、もしかして路銀に困ってらっしゃるとか……」   真剣に心配している影月に、燕青《えんせい》は爆笑《ばくしょう》した。 「あっちこっちの役所でとっつかまって、これ幸いと難題押しっけられてんだろ。あいつ国謡に及第《きゅうだい》してっから、|普通《ふ つう》の州官よか権限も資格も段違いにもってんだよ」 「そうなんですか!」 「あいつも変わり種だからなー……あれ、丙《へい》のおじじからも速便で文が届いてら」  若才が|妙《みょう》に気にして|滞在《たいざい》を延ばした虎林郡。そこを治めているのが丙《へい》太守だった。 「入れ違い……じゃなくて出《ヽ》違《ヽ》い《ヽ》でなんかあったか?」 「もしかして、�邪仙教″《じやせんきょう》とかいう人たちが動き出したとかですかー……? L  若才から届いた報告書には、もちろん影月も目を通している。  虎林郡、千里山脈の山間に�邪仙教″と名乗る妙な信仰《しんこう・》集団が巣喰《すく》いはじめたことを受けて、影月も自分なりに調べてみた。 「�彩八仙《さいはつせん》″の話を根底に置いてるんですよね、確か……」   −遥《はる》かな昔、彩雲国《さいうんこく》初代国王蒼玄とともに国づくりをおこなった八人の仙。彩八仙と呼ばれた彼らは蒼玄の死後、王宮から姿を消し、あとには王が彼らのために建立《こんりゆう》した仙洞宮だ《せんとうきゅう》けが残される。けれど史書によればそののち何度か登場し、王に仕えたと記されている。そのすべてが名君と名高い王であったことから、八仙ほ仕えるに足る君主が現れたとき《ヽヽ1ヽヽ1ヽヽヽ1ヽヽヽ1》、仙洞宮に集《つご》うと言われるようになった。そのために開かずの仙洞宮は今もなお大切に保存され、独立機関として仙洞省が設置された。省を構成するのは非常に少人数で、かつそのほとんどが仙や歴史の研究者だそうだが、機密の多さは類を見ず、何より即位式《そくいしき》を執《と》り行う権限をもっていることから、国の中枢《らゆうすう》である三省六部と肩《かた》を並べる四省目として数えられる。  一……が、長い時を生きすぎた仙人たちは徐々《じよじょ》に邪佃へと変質。よく祀《まつ》ってあげないと崇《たた》りを起こすようになったため、定期的に生け贄《にえ》を|捧《ささ》げねばならない……とかなんとか……」 「そうそう。いやー俺も自分たいして頭良くわーと思ってたけどさ、上には上がいるよな!」さすがの燕青も笑うしかなかったが、わけわからんのひと言で済ませられる話でもない。 「しかも調べてみたらこーゆーヤツって結構|珍《めずら》しくないのな。名前は違っても、似たようなのが昔っからポコポコ出没《しゅつぼつ》しててびっくらこいたぜ。ただなー……」 「ええ。この時期にっていうのがおかしいですよね」すぐに察して思慮《しりよ》深く|眉《まゆ》を寄せる影月に、燕青も嬉《うれ》しくなる。 「だろ。俺が州牧に着任したときも似たようなのがいたなうてこれ見て思いだしたけどさ。  こーゆーのってさ、つまり火事場ドロボーみてぇなもんだろ? |物騒《ぶっそう》なときにゴタゴタに乗じてやりたい放題やって人様に迷惑《めいわく》かけるってやつ。世の中がわけわかんねぇときって、うっかりわけわかんねぇ話も信じちまうからなー。俺だってさ、腹ペコで死にそうなときに、目の前にあからさまにあやしい特大おにぎりが落ちてたら絶対食う自信あるぜ?」  堂々と胸を張って断言する。   影月はなんか違うような気もしたが、いまいち何がおかしいのかわからなかった。 「えーと、でも、僕もそう思います。世相が不安定になってきたときに民心を惑《まご》わすのが信仰集団の常套《じようと——ブ》手段ですから。僕たちが赴任した時ならまだしも、一応着任式も終わって安定期に入りはじめたこの時期にあえて怪気炎《かいきえん》を上げることに、どんな意味があるのか……」 「なー。近所の悪たれに|馬鹿《ばか》にされて『お山に帰れーしつて石投げられんのがオチだよな」  燕青が話しながらガサガサと丙太守からの書翰をひらく。   ザッと目を通し−その日が険しく細められる。 「……�邪仙教″とは直接関係ねーみてぇだな。丙のおじじに見張り頼《たの》んどいたから様子は書いてあるけど、今のとこはまあまあ静かにしてるらしいし」 「じゃぁ、なんのご用で? 速便指沈んでしょ�・」なぞき誓はや 「虎林郡の東、千里山脈に接する石柴村で、腹が膨れる謎の奇病が流行りだしてるらしい」  文を見ていた燕青は、そのとき劇的に変化した影月の表情に気づかなかった。 「念のため琥から良薬と名医の派遣《はけん》をってことでおじじから要請《ようせい》が−」 「−燕青さん!!」 「んっ・うお、どしたおっかねぇ顔して」 「その村、千里山脈のどこら辺に位置してますか!?」  |鬼気《きき》迫《せま》る影月の気迫《きはく》に、何かを感じた燕青はすぐに要点だけ答えた。 「桔林《きつりん》地方だ。千里山脈の二つ、柴山の山麓《さんろく》にあって、村っつっても街に近い。あの山で採れる石は硯としてまあまあ良質だから結構栄えてるんだ。例年より早めに冬がきたって報告はあったが、墟礎の援助《えんけしょ》が必要なほどではないって秋におじじから報告がきてる」みるみるうちに影月の顔色が青ざめていく。即座《そくぎ》に燕青から丙太守の文を受けとると、『奇病』について書かれてある部分を食い入るように読んでいく。|蒼白《そうはく》というより、もはや紙のように白いその顔色に、燕青の顔つきもひきしまっていく。−ただごとではない。  影月ほ次いで即座に茶州の全図を卓《たく》に広げると、千里山脈に沿って連なる小さな村々を次々に指差した。 「−ここ一帯の村や街、そして各郡太守に宛《あ》ててすぐに僕が文を書きます。即刻《そつこく》州府の早馬を用意してください。もし、ここ一帯の里でユ《ヽ》キ《ヽ》ギ《ヽ》ツ《ヽ》ネ《ヽ》を《ヽ》見《ヽ》た《ヽ》という報告があれば、事は一刻を争います」燕青はひと言も無駄日《むだぐち》を挟《ほさ》まなかった。 「あとやることは?」 「……境礎のお医者では|治療《ちりょう》は不可能でしょう。けれど進行を抑《おき》えることくらいはできます。  今から必要な薬を書き出します。柴彰《さいしょう》さんを呼んで、全商連で一両日中に薬と医師の準備を完《かん》了《hリよすつ》させ、即刻送り出せる手はずを整えてください。もしーもし治療の可能性があるとしたら」  影月はぐっと歯を食いしばり、痛みをこらえるかのように瞑目《めいもく》した。 「……州外にも、二通文を書きます。そのうちの一つは秀麗《しゅうれい》さんへ」 「姫《ひめ》さんに?」 「秀麗さんに、主上付きの侍医《じい》1国の最高医官たちの即時派遣《そくじはけん》を陛下に要請してもらいます」  燕青の目が見ひらかれる。   影月は、白くなるほどに拳を握《こぶしにぎ》りしめた。 「−予防は可能です。人から人への伝染もありません。けれどある|環境《かんきょう》条件によって同時期、大量の発病者が出る可能性がとても高いんです。雁患《りかん》の時期は秋の終わり、数ヶ月の潜伏《せんふく》期間を経て冬に発病します。そして、一度発病したら僕の知る限り|完璧《かんぺき》な治療法はありません」  燕青はその意味を即座に察し、額に手を当てた。 「秋に雁患……おい、今はとっくにあそこは冬だぜ。てことは」 「……そうです。今からでは、予防は無意味な可能性が高いんです。これから続々と発病の報告が丙太守に寄せられるでしょう。多分、石集村は間に合わない……けれど、まだユキギツネを確認《か! 、にん》していない村なら」 「−完璧な治療法はないっつったな!?」 「僕が知る限り、です。広い国です。どこかに治療法を知っているお医者がいるかもしれません。けれど、|呑気《のんき 》に捜《さが》している|暇《ひま》はありません。今のこの国で、お医者同士の繋《lrjlな》がりも連絡《〜lんらく》手段のとれる組織もありません。噂だ《うわさ》けで国中を巡《めぐ》るという伝説の医仙を捜しても無意味です。  残る可能性は、確実に居場所のわかる、国一番の医師たちが集う肯酸《きJよ−り》、宮城のみです」 「−わかった。すぐに文《ふみ》書け!!今日の|執務《しつむ》はそれを最優先にする」  燕青は扉を蹴破《とげらけやバ》るようにして室《へや》を飛び出していく。  影月はすぐに料紙と筆を用意したが、筆をもつ手がガクガクと震《ふる》えるのがわかった。                         ′J一J   �これは、罰《.−.−》なのだろうか。  罪を犯《おか》した、自分への。 (……堂…主様……つ)   カッと目をひらくと、拳を叩《たた》きつけて無埋やり震えを止める。   −今、なんとかできるとしたら、自分だけだ。  ああはいったが、千里山脈と接していない貰陽の医師に、あの病に関して自分以上の知識があるとは思えない。それでも、培《つちわ、》った経験と膨大《ぼうだい》な知識によって治療法を見つけてくれるかもしれない。彼らに自分が知るすべての情報を与《あた》え、そして|到着《とうちゃく》まで自分が何とかしなくては。  ……本当は、あの奇病の治療法を完璧に記した書が、この閂のどこかに必ず存在することを、影月は確信している。彼がこの世の誰《だれ》よりも愛した人は、決して『約束良一を破らない。 『約束だよ。悲しいとき以外はなるべく笑うこと。いつだって生きることをあきらめないこと。  そしてね、私も君に約束するよ��……』  万一の可能性に賭《か》けて、影月はまず黒州州府遠沸《えんゆう》城、擢《わも》州牧宛《あて》に文をしたためはじめる。  ……星が流れた今、自分に許された時間は残り|僅《わず》かだとわかっている。 (陽月《ようげつ》……もう少し、もう少しだけ僕に、時間をー!)   ただ、それだけをひたすらに祈《いの》る。         ㈴鹿瀾�帝鳴  貰陽−配下からもたらされた報《しらせ》に、彼は覚えず笑む。まとう衣《ころも》は、明けの標《けよう》色。   拍子《ひょうし》に、肩口《かたぐち》から月光色の髪《かみ》が一房《ひとふき》、すべり落ちる。 「まったく、運命、としか言いようがありませんね……」  杜《と》影月は、ひどく残酷《ぎんこく》な白の女王にことのほか愛されているようだ。  彼は何もしない。何もせずとも、事が起こることを知っている。だからこそ運命なのだ。   ほんの少しばかり駒《こま》を動かしたあとは、ただ『そのとき』を待てばいい。  一族の異能を発現させた茶春姫《きしゅんき》を感知してから、偶然《ぐうぜん》見つけた二つの『捜しもの』。   その内の一つは、近いうちにこの掌《てのけら》に落ちてくるだろう。 「茶州、虎林郡の東に、早い冬が|訪《おとず》れた……」   いま再び、杜影月は、かつて味わった絶望とともに。                .ノバ�ご 「雪Hー.H�−.j▼.Jー.�.ー�ノ! 旨.パ∴FL琵バ讃崇」厩         ..ーLトuHHトl,1:…4.当ノゃ…ーJtJH;∵;..∴l,1.占.Hl上かVり」さ工廻  ベロリろラリは〜、と龍蓮的《ヽヽヽ》劇的な感動の余韻《よ�ん》を残して笛の吾がやむ。  途端《とた・れ》に、盛大《セr�だl�》な拍手《.∴、し髄》が鳴った。一人は熱心に、一人は拍手するのがやっとというふうにペチぺチと。                                                                      1−・hr.−.ーL L 「うん、ピタッと決まりましたね龍蓮《�りl・・11一1.ノ》さん!」 「ふ。苦しゅうない。だが中盤《ら時うばん》に少々不満が残る。ややもったりしたな」 「え、そうかな。激しくてカッコいいと思いましたけど」  もったりってなんだ、と秀麗《し時うおい》はぐったりしながら内心で《r》突っ込んだ。まるで全力疾走《しつそう》したあと日没《にちぼつ》まで畑を耕したかのように動怪《ご・Jき》が激しい。大自然までがひゅるりら〜と木枯《l一が・り》Lを吹《ふ》かせまくっていることに、彼らは気づかないのだろうか。  ちなみに現在地は邵可邸《しようかてい》である。目の前の二人は秀麗が管首書《者∵んしょうしょ》との飲み比べから帰ってきて数日後には、まさに寄居虫《ヤ一ドーカリ》のごとく居候《いそうろう》になっていた。  龍蓮も克海も彩《こ′\じ時人さい》七区にそれぞれ貴陽別邸をもっているのだが、龍蓮は『藍《・りん》邸は風流でないLという意味不明な理由から、克海は茶鴛洵《さえ人じゅん》死去以来、別邸が手入れされていないこともさるこ  とながら、『なんだか|偉《えら》い人たちからぞくぞくと文がきて△※♯*×!!』という悲鳴とともに邵可邸に転がり込んでき実のであった。……秀麗のほうがよっぽどわけがわからない。 (いつのまにうちは珍《ちん》・駆《人�》け込み寺に……)   そんなこんなで、現在かなりにぎやかになっている邵可邸であった。   ちなみに邵可と静蘭《せいらん》は宮城に出仕しているが、静蘭に関してはかなりの確率で『逃《こ》げた』と秀麗は思っている。茶《七し》州でもそうだったのだが、静蘭は奏楽の素養に長《◆ら》けているせいか秀麗以上に龍蓮の笛が耐《た》え難《がた》いらしく、音楽というより宇宙と交信しているとしか思えないらしい。 (静蘭……裏切ったわね……)  秀麗だってやることがないどころか、いちばんの正念場を控《!?一か》えている。   もともと秀麗が朝質を終えてもまだ貫陽に|滞在《たいざい》しているのは、影月《えいげつ》と|一緒《いっしょ》に考えた茶州での研究機関設立に向けて、最初のとっかかりをつかむためなのだ。   予算関係で戸《−し》部を、設立時に講師として学士や博士を横流ししてもらうために礼部と工部にまず話を聞いてもらう必要があり! 第一の難関だった工部尚書管飛翔《かん!?lしょう》を、飲み比べの末なんとかかんとかこのあいだ陥落《かんらく》させることができた。   とはいえ予算が|莫大《ばくだい》すぎて全部公費では落とせない。貧乏《げんぼう》な茶州では賄《まかな》えないぶんのお金を全商連に出してもらおうという腹で、最後にズバッと全商連に話を通して意気揚々《よーブトやつ》と茶州にひきあげようと思っていたのだがー。 (……さ、柴凛《さいりん》さん遅《おそ》い……)  仲介《らゆうかい》役を務めてくれるはずの柴凛からはなかなか返事がこなかった。聞くところによると、どうも全商連はかなり慎重《しんちょう》に時機を計っているらしく、少しのびるかもしれないと、柴凛が困った顔で告げた。おかげで秀麗はここしばらく龍蓮の笛を聞く羽目になってl定まった。  龍蓮が上機嫌《じょうきげん》で 「喉《のご》を潤《うるお》してくる」と席を外すと、秀麗はすかさず克泡を捕《l一−カ》まえた。 「ね、ねえ克洵さん」 「はい?」 「あの……龍蓮の笛、ほ、本当に心から良いと思ってる……のよね?」 「ええ、もちろん」  克軸は即答《すて′し,レ」.rJ》したのち、照れたように頭をかいた。 「僕、奏楽に造詣《ぞう〓し、》も深くないし、流行にも疎《うと》くて……だから、龍蓮さんの独創的で前衛的な笛をちゃんと理解してあげられているかは自信がなくて、それだけ申し訳ないんですけど……L 「…………」 「でも龍蓮さんがああして貞則《しんけ人》に吹いているんですから、あれが当代最高峰《さい二うほう》の音なんですよね。藍家が碧《へき》家と同じくらい芸術系に優《丁ぐ》れているのは有名だし。ほんと、僕なんか想像もつかない腹にドスッとくる音と曲で。それがこうして毎日聞けるなんて、夢のような贅沢《ぜいたく》ですよね」キラキラと興奮に目を輝《かがや》かせている克泡に、秀麗は言葉もなかった。 (……ど、どうしよう……)  真実を教えるべきか否《いな》か、秀麗はいまだかつてこんなに|葛藤《かっとう》したことはなかった。   情報の届かない僻地《へさち》に在りつづけることが、これほどの弊害《へいがい》を引き起こすとは思わなかった。   秀麗などは下手に耳が良く、かつ胡蝶《こちょう》を始めとする超《ちょう》一流の音に幼い頃《ころ》から恵《め〜、》まれて育ったため\余計龍蓮の音に|衝撃《しょうげき》を受けるのだが、克洵はまったくその逆だったのだ。 (こ、こ、これが当代一の音だと思いこんでるから平気なんだわ……)   正真正銘《しようめ↓l》当代一の笛の名手たちの名誉《めいよ》のためにも誤解を正さなくてはと思いつつも、これはこれである意味幸せではないだろうかとも思ってしまう。 「でも、ほんと思い切って龍蓮さんに声をかけてよかった」 「え?」 「茶州で呼び止めたときなんですけど」 「ああ」   |奇天烈《き て れつ》がトンチソカンという衣装《いしょう》を着て歩いているとしか思えない恰好《かつーLこつ》で、頭にキノコやら松ぼっくりやらを載《の》っけている男を、確かによくぞ呼び止めたものである。   ちなみにそれらの秋の味覚は旬《しゅん》を過ぎて腹におさまったため、今の龍蓮の頭には何も載ってはいなかった。雪が降った時は雪だるまを載せていたが、寒いし濡《ぬ》れるしすぐ溶《と》けるLで、お気に召さなかったらしい。発明家でもある柴濠に『溶けない雪だるま』を依頼《いらい》していたが、雪は溶けてこそ風流という彼女の持論にいたく心を打たれ、依頼を取り消していた。   秀麗はそれを見るにつけl¶なぜよりによってこの男に国試で負けたのかしという、永遠に解けない謎《なぞ》を何度も考えるのであった。どう考えてもおかしい。 「あのときの僕って、何もわからないうえに英姫《えいき》お祖母《ばあ》様からも『まずは自分で考えてみや』って見放されてて、いやもう、ほんっっとに切羽詰《せつはつ》まってたんですけど」  よりに重守って龍蓮に衣装や髪型《かみがトh》やらを訊《たで》ねたことからしてそれは知れる。 「でも、金華《も1ノノlり》で秀麗さんや影月くんと一緒にいるところを見ていなかったら、絶対声かけられなかったなぁって思いますよし 「え?」 「金華で龍蓮さんとお話しする機会はなかったけど、お二人と一緒にいる龍蓮さんがすごく楽しそうだったことは覚えてて」                    .」_ノ克泡も普《す》通に出会っていたら遠巻きにするしかなかったろう。けれど、出会ったときの龍蓮のそばには、秀麗と影月がいた。  二人といるとき、ふわりと和《キご》む空気に、手が届きそうな気がした。 「僕が声をかけても、|大丈夫《だいじょうぶ》かなって」  だから克酌は、勇気を振り絞《Lf》って話しかけてみたのだ。そうしたら−。 「|優《やさ》しいんですよね、龍蓮さん。僕の支離滅裂《しりめつわつ》な話も辛抱《し人ばう》強く聞いてくれて。それに、ほら、大捕物《おおしーり一りの》とか差し押さえとかで、ろくなおもてなしもできなかったんですけれど、嫌《いや》な顔するどころか、これもまた風流とか、折れた庭木が池に生えててもそんなふうに慰《なぐさ》めてくだきって」多分それは本気で風流だと思って言ったのだろうと秀麗は思った。 「丁寧《ていねい》に滞在のお礼を言ってくださったときは、春姫《しゅんき》と二人で感激しましたよ」   秀麗は領《うなず》いた。はっきりいって茶本邸《ほんてい》より遥《はる》かにポロで粗食《そしょく》な邵可邸でも、龍蓮や藍将軍が文句をつけたことは一度もない。いつもご|機嫌《き げん》で礼を述べて帰っていく。 「だから僕も春姫も、すっかり龍蓮さんが大好きで。ちょっと突拍子《とつぴよ∴ノし》もないですけど、今じゃこう、びっくり箱から何が出てくるかなって、むしろ楽しみっていうか」 「へ、へえ……」  大物だ、と秀麗は確信した。 「何より僕、今まで同年代でこんなふうに親しくなれた人はいないから」   照れたように笑う克陶に、つられたように秀麗も頬《ほお》をゆるめた。 「秀麗、克洵」   二人して振り返って−|一拍《いっぱく》。   |絶叫《ぜっきょう》したのは秀麗だった。 「いやうつ!! あんた裏の畑に大事に植えてた大根と蕪《かぷ》と葱《ねぎ》引っこ抜《ぬ》いてきたわね!?」 「すばらしく頃合《ころあ》いだ」 「ばかっっっ! あと三日待てばもっと大きくなっていちばん美味《おい》しくなったのにっ!!」 「畑からチラリとのぞいていたこの三種の菜……完全に熟《じゆく》す前のあやうい白きと優美な線が素《寸》曙《∫》らしい。沸々と即興《ふつふつそつきょう》曲がわき上がってくる。題は『邵可邸自給自足・白の集《っご》い編しだな」 「いちばんどうでもいい頃合いじゃないのっっ! ふざけんじゃないわよ人んちの大事な野菜なんだと思ってんのあんたは   っっ!!」 「あと何かがあればさらに秀逸《しゅういつ》な新曲が書ける予感がする」  全然人の話を開かずにきょろきょろとネタをさがす龍蓮に、秀麿はぶるぶると震《ふる》えた。 「…尭洵さん……どこの誰《だれ》が人の話を辛抱強く聞いてくれるんです……?」 「あの……いえ……あれ……?」  そのとき、近くから苦笑いの混じった|咳払《せきばら》いが聞こえてきた。 「その、勝手にお|邪魔《じゃま 》してしまって申し訳ない。何度か呼んだんだが」 「凛さん!」  いつのまにか回廊《かいらう》に立っていた柴凛に気づいた瞬間、《しゅんかん》秀麗は飛んでいった。 「−もしかして!?」 「ああ」  柴凛は懐《・パところ》から一通の書翰《しよかん》を取り出し、秀麗の前で軽く振って見せた。 「私宛《あて》に全商連からお呼びがかかったよ。目和《だんな》様は登城していないから、もし行くなら秀麗殿《ごの》一人ということになるが……どうする?顔見せや|挨拶《あいさつ》程度になっても、|一緒《いっしょ》にくるかいフ」秀麗の顔つきが引き締《し》まった。−次にいつ機会がくるかわからない。 「行きます」         や帝電報・ 「ふふ。ふ。ふふふふふふ」   不気味なふふふ笑い《、ヽヽヽヽ》が|執務《しつむ》室に木霊《こだま》する。   当初はつとめて無視していた楸瑛《しゅうえい》だったが、止めない限り永遠につづくことを知ると、おもむろに一つ咳払いした。 「……主上」《しゅじょう》 「ふふふふふ」 「主上」 「ふんふん」    −全然聞いていなかった。   さらさらと署名をしたり御璽《ぎよじ》を捺《お》したりしてきちんと政務をしてはいるが、にへにへと|崩《くず》れまくったその顔には、最近ひそかに官女の間で評判だった『冴《さ》えます|美貌《び ぼう》』は欠片《かけら》も見られない。とはいえ、ほっ。へたをみょーんとつねりたくなるほど幸せ一杯《いっぱい》なその顔は、轍項にとっては実に見慣れたものであった。 【  ようやく目にすることができたその表情《かお》に、ポッとしている自分に楸瑛は気づく。    《.》−こういう顔ができる間は、心配はない……。  ′  《r》そう安堵《あんど》すると同時に、この特別な笑顔《えがお》を贈《おく》ることができる相手が、二人しかいない事実に|僅《わず》かに不安を覚える。   けれどどこに誰の耳目があるかわからない朝廷《ちょうてい》で、たとえ二人きりでも静蘭が兄の顔になる  ことは許されず、王もまたそれを求めることはできない。  安心して、彼がへらへらできるのは、たった一人しかいないのだ。 「……どうして私や経仮《こうゆう》を|一緒《いっしょ》に連れていってくださらなかったんです?」  それまでうららな春風が吹《・い》いていた劉輝《りゆうさ》の頭が、瞬時に覚醒《かくせい》した。 「なっ、なぜわかった!」 「そりゃわかりますよ」  劉輝はもじもじと後ろめたそうに視線をさまよわせた。 「その、ちょっとしたご縁《えん》があってだな。夜中近くで、急なことだったのだ。別に仲間はずれにしたわけではないのだぞ。余だってご飯も食べず、二胡《にこ》も聞けずに帰ってきたし……」別に楸瑛は『仲間はずれ』にされたことを責めているわけではないのだが。 「つまり突発《とつはつ》的に行かれたわけですね。で、邵可様に『夜這《よば》い御免《ごめん》状トを出されたんですか」 「いや、それがうっかり失念してな……挨拶もせずに明け方慌《あわ》てて帰ってきてしまったのだ」ぼそぼそと|呟《つぶや》く劉輝に、楸瑛は|眉《まゆ》を上げた。……なんと、まっとうな 「夜這い』である。 「:‥ずっと二人きりでいらしたんですか? L 「うむ。一緒に朝日を見たのだ。秀麗が手を繋《つな》いでくれてな」  てれてれと頬をかく劉輝に、楸瑛はますます|仰天《ぎょうてん》した。もしかするともしかするかと思ったが、しかし楸瑛も曲がりなりにも二人と二年近く付き合ってきた実績がある。 「それはそれは……で、どこで朝日を見たんですか?」 「庭院の桜の下だ」 「はう。春ならかなりイイ線の選択《せ人た′\》ですが、今はずいぶん寒くないですか」 「うむ。霜《しも》で尻《しり》が濡《ぬ》れてな、秀麗が|途中《とちゅう》で尻が|凍《こお》りつきかけていることに気づいてくれなかったら、日が高くなるまで二人して動けなくなっていたぞ。とはいえ余など慌てて立ちあがったから衣が裂《さ》けて、今朝珠翠《しゅすい》に怒《おこ》られた……。幸い重ね着していたから|被害《ひ がい》は上衣一枚に留《とご》まったが、下表が破れていたら余は男としての面目を失うところだった」劉輝は至極真面目《し一Jくまじめ》だった。楸瑛は吹きだすのを必死にこらえようとして、結局失敗した。 「いいんだ。ちゃんと秀麗が縫《ぬ》ってくれたからな。余は幸せ者なのだ」  笑い出した楸瑛に、劉輝はぷいとそっぽを向いた。                                                                                        ♪  それでも、彼の幸せそうな空気は少しも揺《ur》らがない。  まず|間違《ま ちが》いなく、逢《あ》って言葉を交《か》わし、文字通りただ手を繋いで朝日を見ただけだろう。  別れの目がくることを知りながら、二人きりで逢える僅かな時を、そんなふうにしか使わない。……たったそれだけで、彼はこんなに元気になれるのに、決してそれ以上は求めない。   −何一つ確かなものなどありはしないのに、印《しるし》を刻みもせずに彼は手を離《はな》す。  こんなとき、この年若い王の心は、自分よりよほど大人なのかもしれないと、楸瑛は思う。 「……不安に、なりはしませんか」  思わずこぼれた言葉に、軟瑛自身が|驚《おどろ》き、口許《くちもと》を押さえた。  そんな彼の様子に劉輝はちょっと陛目《ごうもく》すると、不思議な|微笑《ほほえ》みを|浮《う》かべた。 「心配してくれるのか。嬉《うれ》しいぞ」  嬉しさと、それ以外の何かを含《ふく》む笑顔に、なぜか楸瑛の胸が後ろめたく痛んだ。  ……その痛みの理由を、楸瑛が知るのは、もう少しあとのことになる。 「そういえば、経倣《こうゆう》はまだ二日酔《ふつかよ》いで寝《ね》込んでるのか?」  楸瑛は話題が変わったことに|妙《みょう》にホッとした。 「あーいえ、もう出仕はしてますけど、経仮が紅《こう》家の新年準備で邸に詰《やしきつ》めていたときも吏《)》部尚書はいつも通り仕事をさぼりまくっていたので、たまりまくった仕事がとんでもないことになってて吏部から出られないみたいですよ……邸にも帰ってないとか……」劉輝ぼうっと顔を引きつらせた。  �悪鬼巣窟《あつきそうくつ》″吏部の猛者《もさ》たちさえ入室を泣いて嫌《いや》がる吏部尚書室。働き者の戸《こ》部尚書はかつて足を踏《ふ》み入れた瞬間|踵《きびす》を返し、以後近寄りもしなくなったという。『戸部尚書の仮面の下』と『吏部尚書の未処理仕事』は朝廷|恐怖《きょうふ》の二大代名詞として他の追随《ついずい》を許さない。  常人なら一目で|魂《たましい》を彼岸に飛ばしたくなるという恐怖の吏部尚書山積仕事だが、タチが悪いのは黎深《れいしん》がその気になれば大概《たいがい》半刻で片づくことが過去何度も実証済みな点であった。 「……紅尚書……本気を出せば一年分の仕事も三口で終わらせられるのにな……」 「……あのかたは一年に一回本気を出せばいいほうですからね……」  余談だが去年の春、紅黎深が某《ぼう》ハゲ頭によって軟禁《なんきん》され、工の執務室が書翰《しごと》に埋《う》もれた時も、吏部の官吏たちだけは眉を上げもしなかった。『実に見慣れた光景ですね』サラリとのたまい  至極冷静に事態に対処した吏部官吏たちはまことに頼《たの》もしく実に恰好《かつこ》良く、他部署の官吏たちから熱い視線を浴びたものだ。経倣ぶ地道に片づけていてもそうだったのに、それさえなかったのだから、現在吏部尚書室がどんな|状況《じょうきょう》になっているのやら、想像するだに怖《おそ》ろしい。  そのとき、入室してきた下官が恭《∴ノやうや》しく訪問者を告げた。    さしゅうしゅういんていゆうし時人 「茶州州声、邸悠舜様がお見えになりました」  劉輝は楸瑛も下がらせ、郵悠舜と一対一で臨《のぞ》んだ。  足を少し引きずりながら入ってくる彼を、劉輝は手を貸しもせずにただ待った。  脆《rlトぎまず》くと、悠舜ほゆっくりながら|完璧《かんぺき》な脆拝《きはい》の礼をとった。  ゆるやかな沈黙《ら′八もく》が室《lへや》を支配する。 「十年、良く茶州を支えてくれた」  やがて、劉輝の静かな声が室に落ちる。 「遅《おそ》くなって、すまなかった」  悠舜の扮せた絆《けとみ》に、王の沓《くつ》が入りこむ。許しなく顔を上げても、劉輝は各《とが》めなかった。 「茶州府のすべての官吏に、心からの感謝を」  王を見据《みす》えていた悠舜の眼差《まなぎ》しが、ふとやわらかく和《なご》んだ。 「……良き王に、おなりになられましたね」 「即位式《そくいしき》のときのそなたは、怒っていたな」 「ええ、とても」  言葉とは裏腹に、悠舜の表情は微笑んだままだった。 「あれから、よくここまで立ち直られました。頑張《がんば》りましたね、主上」   とっくに許されていることを知り、劉輝は泣き笑いのような顔をした。 「……もっと、怒られると思っていた」 「これから充分、《ビ時∴ノバ人》その機会はございましょう。お|覚悟《かくご 》なさいませ」  悠舜は若き王が差しだした手をとり、用意された|椅子《いす》に腰《こし》を下ろした。 「なぜ、父が茶州に関して 「年前から沈黙を守ったのか、ようやくわかった」  ぽつんと、劉輝は呟いた。悠舜の|穏《おだ》やかな双膵《そうぼう》は、王の言葉を見抜《みぬ》いて、|優《やさ》しく微笑む。 「父は、待っていたのだな。後ろ盾《だて》のないそなたが、朝廷につぶされてしまわぬように。その才を、誰に阻《ごーl‥‥J‥》まれることなく花ひらかせることができるように」あまりにも菌《」J》ぐな心と、障害をもつ体のため、上官たちの妬《ねた》みを買ったかつての状元。《じょうげん》  漆黒《しっ・.了、》の闇《やみ》に摘《つ》まれようとした稀代《きたい》なる才能は、茶州へ志願したことにより、中央官が見向きもしない遠い地でひそやかに、確実に、開花する。  十年、どこはりも厳しい第一線に在りつづけた彼は、今−。   悠舜から手渡《てわた》された書輪《しよかん》に目を適し、王は苦笑《! 、しlょぅ》する。 「中央省庁からも内諾《ないだ! 、》をとりつけたか……どんな仙術《せんじ沌つ》を使ったのだ? L 「衿持《さよら∴し》の高い方々のお相手は、この子年で充分経験を積んでまいりましたので」  はったりでよろしいのでご署名をと、にこやかに促《うなが》す悠舜ほどこまでも誠実そのもので、彼が海千山千の中央大官たちを相手に見事勝利をもぎとってきたとはとても思えない。  彼はこのl十年で、まっすぐな理想を|貫《つらぬ》くだけの力と経験を身につけて、帰ってきた。 「……父上は、どこまで見越《みこ》していらしたのだろう」  政務を執《しー》るにつれ、劉輝はそう思わずにいられない。 「父を殺し、兄弟を殺し、親族を殺し、官吏を殺し、豪族《ごうぞノ、》を殺し、玉座を両断し、すべてを壊《l二わ》し尽《二》くしてから、私は私の国をつくる』宋太博《そうたいふ》が語った父の言葉に|嘘《うそ》はない。直系の血を継《つ》ぐ者が劉輝と清苑《あに》しか残っていない一国がそれでもある。傍系も邪魔《ば∴ノ!?し,‥しやま》と思えば|処刑《しょけい》した。その|残虐《ざんぎゃく》さを怖《おそ》れられる一方で、史上稀《まれ》に見る大改革を行い、同を平定し、暗黒期と呼ばれた大業《たいごう》年間に終止符《し紬うしふ》を打った稀代の名君でもある。そして今の朝廷《らようてい》三師をはじめとする名大宵たちの絶対なる忠誠を掌《てのひ・り》におさめた覇士《はおう》。残酷《ギーんこく》だったのか、優しかったのか〜今でも劉輝は考える。  そして、玉座にて父が一人何を考え、思っていたのか−。  ただ一つだけわかっているのは、まだまだ自分は父の足元にも及《およ》ばぬということだけだ。 「……気が向いたら、いつでも帰ってきてくれ。尚書令の地位はそれまで空けておく」  署名しながらの劉輝の言葉に、悠舜ほ目をまたたいたのち、微《かす》かに苦笑をにじませた。 「私を、|宰相《さいしょう》位にお任じになると?」   それだけではなかった。朝廷三師三公に次ぐ正二品位を、全官吏の中でただ一人与《あた》えられる尚書令は、別名典領百官。四省六部全官吏の頂点に立ち、実務に携《たずさ》わるなかでは並ぶ者なき最高位である。ひるがえせば尚書令を牽制《!?∵んせい》できる官吏は存在せず、それゆえしばしば独裁を許すことに繋《つな》がり、歴代王の多くはわざと空位にしてきた。   しかし最近まで長らくその座を占《し》めていた官吏がいた。   宵堵疲《しよ・りよ、つせ人》�現在の、宵大師その人である。   かの名宰相|誉《ほま》れ高きそのあとを鄭悠舜にと、劉輝は言うのだ。 「それはまた、ずいぶんな出世ですね」 「吏部・戸部両尚書が素直《すなお》に言うことを聞く相手など|滅多《めった 》にいなくてな……」 「そうでしょうね。ちょっとしたコツがございますから」 「あとで、余にこっそり教えてくれ」   真顔で言う劉輝に、悠舜ほくすくすと笑った。   笑いやむと、悠舜は静かに訊《ヽ、》いた。 「! 私でよろしいのですか? L  紅黎藻は基本的に国事に関心がない。黄奇人《こうきじん》の|容赦《ようしゃ》ない厳しさは折衝よ《せつしょう》り実務向きだ。何よ《▼》り二人とも灰汁《あく》の強すぎる個性のために、味方と同時に水面下での反発も多い。いずれ宰相位にのぼるとしても、それは今ではないーそう思っていた。それに。 「言ったろう。父は待っていたのだ。茶州の平定とともに、次代の宰相が育つそのときを」   まるで、翌年に|倒《たお》れる自分と、朝廷に吹《ふ》き荒《ム》れる上位争いを予期していたかのように。先王は紙一重の差で、鄭悠舜を茶州へ送りだした。 「ええ。次に玉座に座ることになる公子のために」   劉輝がハッと顔を上げると、知性あふれる穏やかな畔と出会う。 「−そのlために、必ず生きて戻《もピ》ってくるようにと、先王陛下よりお言葉を賜《たまわ》りました」 「……まさか余が残るとほ、父も想像しなかったろうに」  紛《ょr�》め絵はピタリとはまっていく。紅・黄両尚書をはじめとする現在の人事の大半が、宵大師と病床《げよ・りしょう》の戊による采配《さいuい》だ。そして少しずつ回に余裕《L−ルう》ができて、空位の大官を埋めようと首を巡《こうペめぐ》らせば、恰好《んr.1∵つ》のl人材が必ずいる。礼部の由《ろ》尚書しかり−。l  ……今なお、劉輝は父と三価の学士にある。 「燕青《えんせ∴》への処置と、茶州の一新州牧のl采配は、あなたによるものです」   まるで心を読んだかのように、署名の入った書翰を受けとりながら悠舜は唇に笑みを刻む。 「お見事でございました」   席を立とうとする悠舜に劉輝は|驚《おどろ》いた。l支えようと伸《▼の》べた王の手を、悠舜は押し戴《いただ》くように額に当てた。そのまま|膝《ひざ》をついた彼に、劉輝の目が見ひらかれる。 「、王上のご即《そ・1》位に、改めてお慶《トl★ろこ》びを申し上げますL  穏やかで優しい膵が、劉輝をとらえる。 「尚書令のお話はまだお心の内に留《レ∴ご》めておかれませ。安易に決めてしまうべき地位ではございません。私などよりふさわしい御方《・°一.′/.ょ′》がいらっしゃったら、どうなさるおつもりですか」   ひらきかけた劉輝の口を|遮《さえぎ》るように、悠舜ほはっきりとつ、づけた。 「そのような提示がなくとも、茶州が落ち着いたなら、あ《ヽ》な《ヽ》た《ヽ》の《ヽ》た《ヽ》め《ヽ》に《ヽ》必ず戻ってくることをお約束いたします。お優しく心強き我が君に心からの忠誠を。−たとえ、紅藍両家があなたに反旗を翻《ひるがえ》すときがきても、私はあなたにお仕えいたしましょう」  劉輝は息を呑《の》むと、ゆっくりと片手で目を覆《おお》った。   言葉もなく、ただ小さく背《うなず》いた若き王に、悠舜はもう一度、|微笑《ほほえ》んで深く頭《こうべ》を垂れた。         昔享l庵曝劫   仝商連に出かける支度《した・〜》を整えて、最後に秀麗が門を閉めようとすると、門前に軒が《くるま》とまった∩ 「あら、もう帰ってきたの父様。と……玖娘叔父《くろうおじ》様!」  そこから降りてきた二人に秀麗は驚いた。   けれどそれも束《つか》の間、秀麗ほ久しぶりに会う叔父の姿に心から喜色を|浮《う》かべた。 「お久しぶりです玖琅叔父様。いらっしやってくださったんですねL  姪《めい》のはにかむような笑顔につられ、玖項も滅多に変えない表情を微《かす》かにゆるませた。(うわ……国宝ものに貴重な光景……)   見ていた邵可はしみじみそう思った。次いで秀麗の外出着に目をとめる。 「あれ、もしかして出かけるのかい、秀麗」 「う、ん……そのつもりだったんだけど」 「ああ、|大丈夫《だいじょうぶ》。急ぎの用なら気にしないで。お茶なら私がやっておくから」 「……今すぐお茶の用意をしてくるわ」   即座《そくぎ》に|踵《きびす》を返した秀麗の腕《うで》を、玖項が軽くつかんで引き留めた。 「気にしなくて良い。郡兄上のことならわかっている。急ぎなら行きなさい」 「叔父様……」   秀麗はハッと例の木簡のことを思い出し、深々と頭を下げた。 「あの、その節は木簡をありがとうございました。とても助かりました」 「ああ、よく頑張ったな」 「いえ……」 「頑張った、と私は言ったのだし  玖娘が頭を軽く撫《な》でると、秀麗は少しだけうつむき、そして笑った。 「……はい」 「土産《みやげ》だ」   とん、と小さな包みを手渡《てわた》される。中身をのぞいた秀麗は、バッと顔を輝《かがや》かせた。 「お蜜柑《みかん》! わ、すごくおいしそう」 「紅州|自慢《じ まん》の蜜柑だ。紅州の邸《やしき》にいたころ、君の好物だった」 「え、そうなんですか!?」  邵可も苦を思い出して額《うなず》いた。 「そういえば玖攻、よく秀鹿にあげにきてたね」  世界の中心で愛を|叫《さけ》んではいるが、黎藻にはそういった『グッと子供心をつかむ小技《こわぎ》』が果てしなく欠けている。逆に玖娘は小器用に子供秀麗を喜ばせるのがうまく、結果、黎深ほ常に玖娘の二番煎《にばんせん》じに甘んじることになり、毎回地団駄《じだんだ》を隊《h》んで悔《くや》しがっていたのであった。 (……あれ……もしかして、黎深が玖娘につっかかるのって…………)  邵可は黎深の根深い逆恨《さかう云》みの|一端《いったん》を垣間《かいま》見てしまった気がした。 「ありがとうございます。おいしくいただかせてもらいますね」 「出かけるなら、いくつか包んでもっていくといい」  玖娘は包みから蜜柑をいくつかとると、懐《ふところ》からだした綿の手巾《てぬぐい》で包んだ。残りの包みと交換《こうかん》するように、秀巌の掌にのせる。 「|巾着《きんちゃく》に入れておけば邪魔にはなるまい」 「はい。……せっかく訪ねてくださったのに本当にごめんなさい。お時間がよろしかったら、帰ってくるまで、あの、待っててくださいますか?」 「ああ。行ってきなさい」  秀麗は巾着に大事に蜜柑の包みをしまうと、笑顔を残して門から出て行ったのだった。   −秀麗が去ると、二気にズソと空気が重くなった。  邵可は室《へや》に案内し、お茶を掩《し》れようとしたが、いつものごとくなかなか茶器が見つからない。  玖娘は無言のまま、かわりに茶器を見つけ、邵可が|途中《とちゅう》散らかしたものを片付け、もってきた蜜柑をお茶請《らやう》けに二個とりだし、きちんと洗って小皿にのせ、かつお茶を二人分掩れた。  紅邵可と紅黎藻を兄にもつと、末弟《よって.」l》は必然的にこうなるという見本であった。  邵可は逆にもてなされ、まったりとお茶をいただいた。 「あー、ありがとう玖娘」  無言。 「うん、相変わらず君のお茶はおいしいね。外は寒かったから、あったまるね」  無言。 「あ、この茶葉ね、安いけど良いお味だよね。秀麗が吟味《で叫んみ》してきたんだよ」 「−で?」  玖項は一杯《いつ〓い》目の茶を飲み干すと、じろりと長兄を睨《らようけいに・り》むように見据《みl・丁》えた。 「別《ヽ》の《ヽ》吟《ヽ》味《ヽ》は終わりましたか、郡兄上」  惑《まご》わされることなく氷の視線でズバリ本題を突《つ》いてきた末弟に、邵可は内心で舌打ちした。 「あ、それね、あのね」 「黎兄上がここにきたことはわかってるんです」 「あ、うん、そうなんだけど」 「あの黎兄上が書翰《しよカ人》を問答無用で燃やさなかったことをとっても、重要度がわかるというものです。当然、秀麗に話は適してあるんでしょうね」  玖項はまるで話を聞かず、それでいて手際《てざわ》よく邵可の蜜柑から剥《ヽヽヽヽ111む》いていく。 「まあ、勿論《もちろん》最善の選択肢《せんたくし》は−」 「玖項」  邵可は|溜息《ためいき》と|一緒《いっしょ》に玖娘の深い眉間《みけん》の級《しわ》をビシッとついた。 「結論を急ぐとは君らしくないね」 「別に�」 「|縁談《えんだん》は私と黎深で全部目を通したよ。今はそれで充分だ《じゆうぶん》。いったん君が持ち帰りなさい」   やわらかながらもきっぱりとした言葉に、玖娘は|眉《まゆ》を寄せた。 「……秀勝は、知らないんですね?」 「すぐ茶州に戻っちゃうのに、今教えても仕方ないだろう。それに、断言しても良いけど、今見せても秀麗はきっと片《かた》っ端《ばし》から断るよ」 「……政略結婚が嫌《いや》、ということですか」 「いや、それ以前の問題だよ。そもそも今の秀麗は結婚とか考えてもいないと思うから」邵可は、年頃《としごろ》の娘《むすめ》にしてはあまりに恋愛を意識しなさ過ぎる秀麗を思う。  あれは鈍感《ごんかん》と言うより、おそらくは無意識に考えないようにしているのだ。それは−。  玖項の表情に気づいて、邵可は少しく苦笑《くしよlつ》した。 「……まあ、官吏になったこともあるけど、政略でもなんでも、自らの意志で申し込みにこない男に秀麗をやるわけにはいかないよ。必要だと判断したから、私も黎藻も縁談話に目を通したけど、最終的には秀麗次第《しだい》だ。そしてそれは、多分−とても難しい」  かつて妻が、さんざん邵可を追い払ったのと同じように。 「それにね、君は本当に何でもかんでも自分一人で背負いすぎるよ、玖娘」  邵可ほ玖項の手から剥きかけの蜜柑をとると、それを自分の小皿に戻《もご》し、かわりに玖項の蜜柑を剥いてやった。 「少しは兄を信用しなさい。焦《あせ》らなくても、紅家は大丈夫だから」  いつもの不器用な見からは考えられないほどくるりと締魔《されい》に剥かれた蜜柑を渡され、玖娘は|驚《おどろ》きつつも不穏《・舟.ぷん》な表情で蜜柑と兄の顔を見比べた。 「……郡兄上が、それを言いますか」 「いざとなったら私が頑張って長生きして、百まで当主を務めるよ。それくらいの覚悟はある」  思わぬ不意打ちに、玖娘は取り繕う暇《つくろひま》もなかった。 「そのころには、きっとひ孫までたくさん生まれてて、次の当主はよりどりみどりだよ」  玖項は顔を見られないように、視線を邵可からはずした。|握《にぎ》りしめた拳が《こぶし》震えた。  今さらー理性ではそう文句を|呟《つぶや》きながらも、邵可のその言葉は、玖娘の心に優しく響《ひげ》いた。  誰《ヽ》の《ヽ》た《ヽ》め《ヽ》に《ヽ》長兄がそんなことを言うのか−。  それを素直《すなお》に認めたくなくて、玖娘はムスッとしたまま話を戻した。 「……郡兄上が当主になったら余計私が苦労します。まあ、確かに、秀麗の件では焦っていたかもしれません。ですが私の考えは変わりません。どう考えても秀麗と緑牧と紅家にとっていちばんいい縁談は一つしかありませんからね。絳攸も|馬鹿《ばか》ではない以上、わかるはずです」邵可は蜜柑を割る手を止めた。 「……え、もしかして言っちゃったの!?君が勝手にうちに縁談寄こしたことも〜」 「勝手とはなんです。家同士の婚姻《こんいん》なんてそんなもんでしょう」  絳攸の苦悩《くのう》が手にとるように察せられて、邵可は心の中で義理の甥《おい》に謝った。 (うわー……経倣殿《どの》は|真面目《まじめ》だからなぁ……。それに玖娘の性格だと別に強制はしてないだろうに、多分威圧《いあつ》感に押されてきっとそのことにも気づいてないだろう……)玖娘は若いくせに妙な迫力《みょうはくりょく》と威圧感があるので、相手によく 「そうかも」と思わせるのだ。 「……あーでも、もし秀庫が経倣殿と結婚したら、黎深が秀麗の義理の父親になるんだね」   その瞬間、《しゅんかん》玖娘は|完璧《かんぺき》に|凍《こお》りついた。 「黎深がお義父《とう》さんかぁ……なんかこう、秀麗の一生はある意味|凄《すご》いことになりそうだよね」 「……………………あ、の……郡…兄上……………………」 「うん?どうしたの玖娘。顔が青いよー」玖娘は|蒼白《そうはく》な顔に、びっしりと脂汗を浮《あぷらあせう》かべていた。手にもつ湯飲みがぶるぶると震《ふる》える。  しかし、玖娘はぐっとお茶をいちどきに飲み干し、言い切った。 「秀麗なら大丈夫です! 逆に言えば、秀庫以外の誰《だれ》が黎兄上を舅《しゅうと》にもてるんですか」 「…………」  なかなかやるな、と邵可は感心した。理論を逆手にとってくるとは。  邵可にさえ、うっかり 「そうかも」と思わせてしまう玖娘は、やはり大人物であった。         骨魯勅命㉃ 「……まったく、二人ともくっついてきちやって……」  秀麗は柴凛の隣で軒に掛《となりくるよ。》られながら、向かいに座る龍蓮と克陶を見て額を押さえた。  龍蓮は物憂《ものう》げに『邵可邸《てい》自給自足・白の集《つご》い編hの作曲に|没頭《ぼっとう》し、克洵ほ窓にかじりついて、見るものすべてが|珍《めずら》しいとばかりに、土都貴陽の華《はな》やかな光景に興奮している。 「ていうか、あなたたち全商連に行ってどうするの?」 「僕は春姫と英姫お祖母様に何かお土産《みやげ》を買おうかと。全商連の近くには良いお店がたくさんあるって凍さんに聞いたので」 「ああ、なるほど」 「……それにしても、貴陽への旅で僕も考えさせられました」克海はふっと真剣《しんけん》な眼差《まなぎ》しで窓の外を見た。 「……茶州がどんなに立ち後《お・、》れているか、はっきりわかりました。これから、僕たちでなんとかしなくては……」垣間見えた茶家当主としての横顔に、秀麗は目を丸くした。 (英姫さんは、このことも見越《みこ》していたのかしら……)   そのとき、柴凍が気づいたように克洵のほうに前屈《よえかが》みになった。 「ところで克洵殿は値切り方を知ってるのかな?」 「え、値切りフ」 「馬鹿正直に言われたとおり代金を払《はら》うとカモと見なされて、身ぐるみはがされるぞ」 「ええっ!?なんですかそれ!?街中で強盗《ごうとう》が頻発《ひんばつ》するほど城下の治安が悪いんですかっ!?」 「…………。……その前に、ちょっとお|財布《さいふ》を拝見」  克洵が大事に|膝《ひざ》にのせている布袋《ぬのぶくろ》を拝借し、中身をのぞいて柴凛は押し|黙《だま》った。 「……ああ、これなら|大丈夫《だいじょうぶ》か」 「な、何が!?」 「カモにもならない。百歩譲《ゆず》ってスズメか。うん、まさにスズメの涙《なみだ》という言葉がぴったりだ」  |容赦《ようしゃ》のない商人査定に、克洵はよろめいた。聞いていた秀鹿も気の毒になった。 「ひどいです柴凛さん! これでも僕のなけなしのお小遣《こづか》いで」   茶家当主が『なけなしのお小遣いhというのもどうなのか。 「……まあ、奥方にお土産をというその心に免《めん》じて、一筆書いてあげよう。私も新妻《にいイま》だしね。その額ではせいぜい大根三本くらいが関の山だぞ」   柴凛は軒に備え付けてある筆と料紙を出し、さらさらと何事か書きつづった。 「このお店に行って、これを見せなさい。そうすればツケがきくから」 「……り、利子はおいくらですか……フ」 「出世払《ーgら》いにしてあげよう。これから頑張《がんば》ってくれるんだろう? 茶家当主殿」  こういうところが世知辛すぎる弟・柴彰と違《さいしようちが》って文句なしにカッコいい。 「で、龍蓮はなんだってついてきたのよ」 「ああ、風流の風が私を呼んだのだ。もうすぐ世紀の大|傑作《けっさく》ができる予感がする」  できたら絶対に吹《lh》くと直感した秀麗は、ハッとひらめいて|巾着《きんちゃく》をあけた。 「ま、まあ龍蓮、気分転換にこれでもあがんなさいよ」  差し出された蜜柑《みか大》を見た龍蓮は、カッと目を見開いた。 「たったいま『白の集い・蜜柑の夕べ』が完成した」 「えっ!?|嘘《うそ》! 早すぎるわよっっ!?」 「その蜜柑がすべてをつなげた」  秀麗は大失敗を悟《七−し」》った。蜜柑で 「白の集い編Lから注意をそらそうとしたのに。 「心の友其《そ》の一には手拍子《てげようし》を頼《たの》もう。大根を表現する大役だ」  秀庫は頭が真っ白になり、口をばくばくとむなしく開閉するしかなかった。  龍蓮は蜜柑が非常に気に入ったらしく、何も載《ぴ・》っていなかった頭に髪紐《かみひも》を使って器用に蜜柑をくくりつけた。するとさらに機嫌《さげん》が良くなり、さっと笛を取り出した。  その瞬間、克泡は心から拍手《はくしゅ》を送り、柴凛は|覚悟《かくご 》を決めたように瞑目《めいもく》した。   −いつも混雑し、にぎわう大通りであったが、その日、大宇宙と交信している二日の軒の  ために、すべての通行人が道を譲《ゆず》った。         ・番・▼藤・   全商連は城下に近い彩《さい》七区とほ離《はな》れたところに貴陽支部を置いていた。   軒を使っても耶可邸からずいぶんかかることもあり、勿論《もちろん》秀麗がきたのは初めてだった。   しかし、秀願はろくに周りの景色など見る余裕《よゆう》もなく、建物内に入った。  (……なんで来る前からこんなに疲《つか》れてんの私……)   たとえ顔見せ程度でも、学舎設立のために資金援助《えんじょ》を願うというかなりの重大事を背負っているはずなのに、今の秀麗には|緊張《きんちょう》以前の問題だった。笛の音をかき消そうとやけくそに手を叩《たた》きすぎて、掌が《てのひら》じんじんとしびれている。   ちなみに龍蓮は克洵と|一緒《いっしょ》に 「新曲を披露《ひろう》Lに』軒《のき》を連ねる大通りに出かけていった。   「……じゃ、じゃあ、私のほうの用事から先に済ませてくるから、この室《へや》で待っていてくれ」�柴凛は笑《え》みを浮かべていたが、別室に向かうよろよろとした足取りがすべてを物語っていた…(ごめ…ごめんなさ餌場さん……)�  秀麗は心のなかで湧花と涙した。  .しんとした室には、秀麗以外誰もいなかった。   《U》ガンガンとした|目眩《め まい》がおさまってくると、今度は否《いや》が応にも緊張が高まってきた。  全商連では、工部の管尚書のような奇をてらった手は使えないことはわかっている。  全商連がもっとも得意とする駆《か》け引きという手段で、正攻法《せいこうはう》をもって説得させ、|交渉《こうしょう》を成立させなくてはならない。   静かなせいで、動博《どうさ》の音が耳鳴りのように響《けげ》いていた。   たとえ|挨拶《あいさつ》程度とはいえ、ぐるぐると色々な場面を想定していたせいで、いつの間にかずいぶん時が過ぎていたことにも、柴濠が別室から戻《もど》ってきたことにも秀麗は気づかなかった。 「私のほうの用事は終わったよ、秀麗殿」 「はい! 今行きます!」 「あー、いや! 実は幹部たちからこれを預かってきてね」   秀麗は差し出されたものにRを丸くした。 「書輸《しよかん》、ですか?」 「ああ。……まったく、幹部たちは旦那《だ人左》様の不在を知った上で私を呼び出したんだな」   柴凛は|前髪《まえがみ》をかきあげると、|溜息《ためいき》をついて口の中でぶつぶつと|呟《つぶや》いた。   秀麗はガサガサと書翰を広げて目を通し�陛目《ごうもく》した。 「……凛さん。私、今から悠舜さんに会いに宮城に行ってきます」   柴凛は目を丸くして何かを言いかけー苦笑《Jヽしよう》とともに思いとどまる。 「わかった。克洵殿たちとは別の軒を用意してあげよう」 「お帰りー。あれ、克洵《こくじ柏人》くんだけかい?」   軒《1、る上人》の音に、郡司《しよマうか》がバクバクと迎《むか》えに行くと、そこには克洵しかいなかった。 「はい。秀麗《し軸∴ノれしl》さんはなんだか悠舜《時うしゅん》さんに会いに登城したらしくて」   柴凛《さ∴∵りん》に送られて帰ってきた克胸の腕《うで》には、しっかりと新妻への贈《おく》り物がある。      りゆうわ人 「龍蓮くんほ〜」 「それが、一緒に歩いてたらですね、いきなり 「行くところができた」って言って、あっというまにどこかに姿を消してしまって……」  困り切ったような克洵とは反対に、邵可はたいして驚かなかった。 (ははあ、龍連くん、玖項《′\ろl∴ノ》と会いたくなかったかな)   邵可はごく単純にそう考えたのだが、克泡の話にはまだつづきがあった。 「それでですね、龍蓮さんから邵可様にお史《・い.叫ノ》を預かったんです」   軽く|眉《まゆ》を上げて、克胸から書翰を受け取る。中にきちんとつづられている、|滞在《たいざい》のお礼と急な|暇《ひま》のお詫《−》びに邵可ほ|微笑《ほほえ》みー同時に、頭の片隅《かた丁み》で|僅《わず》かに助《か人》が働く。 (龍蓮くんが挨拶に寄る暇も惜《t一》しんで動いた……)  何か、注意することがあるかもしれないーほんの一瞬《いつしゅん》よぎった邵可の鋭い眼差《するどまなぎ》しに、克洵が気づくことはなかった。 「そうだ、克洵くん、あのね、実は君たちが出かけていくのと入れ違いに私の弟がきてね」 「え、そうなんですか! ぜひご挨拶をさせてください」 「邵可の弟』ということで、克画はきわめて単純に=邵可其《そ》の二』を想像した。邵可邸《てい》でほのぼのと質素に暮らしていた克河の頭からは、もうすっかり『秀麗が紅《こう》家直系』という概念《がしlねん》は実《そら》の彼方《かなた》に飛んでいた。ゆえに、『邵可の弟』=『国でも一二を争う名門紅家直系男子(もしかしたら朝質で会った当主かも)』という繋《.」h�》がりも、さっぱり浮《・�・》かぶことはなかった。 「うん、玖娘も茶《ヽ1》家の新しいご当主に興味をもっているだろうから、話をしたがると思うよ。きっと、心構えとか色々と為《ため》になる話をしてくれるよ。ちょっと無愛想だけどね」 「え?ココロガマエア無愛想? L|妙《みょう》な単語に克泡が目を点にしたときだった。 「……|騒《さわ》がしいですね、郡兄上。客人ですか」  室から出てきた玖娘と顔を合わせた克洵は、蛇《へげ》に脱《にら》まれた蛙《かえる》のごとく|凍《こお》り付いた。         患歯歯髄㈳ 「酎? そこにいるの翻鵬よね?」   全商連から直接登城した秀麗は、悠舜がいるという場所にまっすぐに向かっていた。その途《し」》中、回廊《らゆうかいろう》の前を歩く背中が見知ったものであるような気がして、そう声をかけた。   振《・ル》り返った彼は確かに同期の碧《へl�》泊明だった。が−。 「ちょーちょっとあんたどうしたのよそんなにやつれてっ!!」 「……お前か」   いつも堂々とふんぞり返っていたその声も、まるで覇気《はき》がない。幽鬼《ゆうき》が|間違《ま ちが》って午口中《ひるひなか》にさまよいでたような衰弱ぶ《�いじやく》りである。 「たいしたことない。単に仕事が終わらないだけだ。経傲《こうゆう》様を思えばなんのこれしき……」   ょろよろと泊明が腕に抱《・乃ふり》えている大屋の書翰を、秀麗はとんでって無理やりひったくった。 「そういえばあんたいま吏《)》部にいるんだったっけ……。経紋様もすごい|状況《じょうきょう》にいるって聞いたけど……吏部尚書《しよ.つしょ》っていつもお仕事ためまくってるしょうがない人なんですって?」 「……いっとくがお前の一族だぞ」 「えっ、嘘! 紅家の人なの!?」 「そー」  そのとき、いきなり泊明の後頭部に何かが直撃《ちよくげき》した。へろへろだった泊明はパタリと|倒《たお》れ、すかさずぶつかったものを受けとめた秀麗は目を点にした。 「…………………………蜜柑《みかん》フ」  しかも玖娘にもらったものーと何やら非常によく似ている気がした。 (……き、気のせいかしら?) 「あ、ちょっとへこんじゃってる。もったいない」 「お前……僕より蜜柑の心配か……」 「あらいやだホホホ。そんなことないわよ。|大丈夫《だいじょうぶ》っ二頂明」 「とってつけたように言うな」  熟してやわらかいので実質的被害《すr.れりし》はたいしたことはない。  秀麗は泊明を助け起こすと、ようやくあることに気、づいた。 「背、伸《,レ》びた?」 「少しな。いい加減もう打ち止めだろう。いい、僕の仕事だ。余計なことはするな」                                                                                                         アーも 「去年の春にせっせと人の世話焼いてくれたの誰《′ノ1′4》よ」  秀麗と拍明は睨み合ったのち、害翰を半分ずつもつことで手を打った。 「あ、もしかして私と一緒にいたから蜜柑投げられたのかしら」 「誰か知らんが、僕が出世した暁《あカlつさ》には蜜柑をぶつけたことを奈落《な・∵1》の底で|後悔《こうかい》させてやる」  素直《寸なお》に言刈にするな」と言えないのが碧泊明である。  相変わらずなことを内心嬉《うれ》しく思いながら、秀鰯は並んで回廊を歩いた。 「元気そうで良かったわ、つて言いたかったんだけど、�・あんまり元気そうじゃないわね」 「ふん、お前はそのへこんだ蜜柑の人生に同情するほど愚かなのか?」   外側はへこんでも、中身はちゃんと美味《おい》しく熟し切っている!。   ちゃっかり巾着《き人らやlく》にしまいこんだ蜜柑を指差され、秀麗はなるほどと笑った。 「あんた、締倣様を尊敬してたものね」 「仕事が辛《つl・り》いのなんて当たり前だ。僕は経傲様を目指して着実に出世街道《かいどう》まっしぐらだ」   疲労《ひ.つ? う》で落ちくぼんではいても、その日には以前と変わらぬ強い光が宿っている。   目指すもののために、どこまでも上へ−。 「泊って、最初から出世に意欲満々よね」 「白お前は違うのか」 「ううん」   秀麗はズレかけた書翰を抱えなおした。その凛《hリ人》とした横顔に、泊明の眼差しが注がれる。 「出世したいわ。上に行きたいと思ってる。行けるところまで」   生|真面目《まじめ》な和明の顔が、微《か丁》かにゆるんだ。 「当然だ。それが、他人を蹴落《!?お》として及第《させつだい》してきた、僕たちの役目だ。誰かを踏《・ト》み台にしたときから、背負っているのは自分だけじゃなくなったんだ。漬《つぶ》してきた未来のぶん、僕たちは出世しなければならないんだ。どこまでも上を目指して、下でのたくってるヤツらに、悔《くや》しかったらここまで来てみろと高笑いする醍醐味《だし.ごみ》を教えてやらんでどうする」  全財産をはたいて、一族の期待を背負って。毎朝毎晩机案《つくえ》にかじりつき、長い旅路を経て、人生と将来を賭《か》けて国試に臨《めぞ》んだ受験者たちを、自分たちは踏みつけて及第した。  落第しても、また一からやり直して上を見上げ、もう一度人生を賭ける価値があるのだと、及第した自分たちが示さなくては、彼らが払《ほ・り》ってきた|犠牲《ぎ せい》と努力も無意味になる。 「最後の国試だった奴《やつ》もいるんだ。そいつらに『あの碧泊明と同じ年に国試を受けた』くらいの|自慢《じ まん》話をさせてやらんと哀《あわ》れだろう。名誉《めいよ》くらい持って帰らせてやらんとな」秀麗は笑った。高飛車で偉《え・り》そうで、努力という名のもとに一本芯《しん》の適った本物の自尊心。 「−そうね。その通りだわ」 「ふふん、子年後が楽しみだな。見てろ、今度は僕が先に行く」  的明が縁故を目指して及第してきたように、いずれ誰かが泊明を目指して及第してくる日が、きっとくるだろう。そして自分もまた、誰にも恥《llllr》じることのないように——バ完遥《りろ》かなる高みへ。 「−なのにあの笛吹馬鹿《——ー.えふきげか》め! 受かった途端《し」たん》にどこぞへトンズラこきやがって。今度僕の目の前に現れたらスマキにして漬《つ》け物石当当りつけて海の底まで沈《しず》めてやるっ」  しようしんしようなんだか吏部に行ってからすいぶん語彙が増えたと秀鹿は感心した。自分と違って正真正銘彩《めも、さい》七家のお|坊《ぼっ》ちゃんだった泊明の口から 「トンズラ」とか 「スマキ」という言葉が聞けるとは。 (吏部で日常茶飯事《さはんじ》……なわけないわよねぇ。六部一の精鋭《せいえい》官吏集l団だし……)  �悪鬼巣窟《あつきそうくつ》″吏部の内実を知らない秀麗は、増えた謎《なぞ》にパテと首を傾《カし》げると同時に、これ以上泊明を興奮させないようにと、その『笛吹馬鹿』の所在地には日をつぐんだのであった。  吏部の役所が近づいてきたのを見て、二人は回廊で立ち止まった。 「礼なんか言わないぞ」 「はいはい、どういたしまして」 「……小動物のほうも、五体満足で生きてるんだろうな」   その問いに、秀麗はすぐには答えることができなかった。   ……貫陽《きよ∴ノ》にくる前から、歯車がずれるように何かが変わりつつあった影月《えいげつ》。   それと同時に、秀麿の心にも抜《ぬ》けない棟《とげ》のように何かがずっと引っかかっている。   出立前の、影月の言葉に、何か−。 「おい〜」 「あ、ううん、ちゃんと元気でいるわよ。大丈夫」   前明ほ|眉《まゆ》をひそめたが、それ以上は何も言わずに秀麗から書翰《しよかん》を受けとり、別れた。   そして秀麗は、六部よりさらに奥−悠舜がいるという宣政殿《せんせいでん》に向かった。   丹鳳門《たんばうもん》をくぐると、辺りは一気に静まり返る。   正面の正殿を中心に、中央省庁を配置したこの蒼明宮《そうめいきゅう》こそが、まごうことなき国の最高機関であった。  全商連からの文《ふみ》を思えば気は焦《あせ》ったが、さすがにここで走るわけにはいかなかったので、落ち着くためにもなるべくゆっくり歩いた。  そうたたずに、どこかぽうっと別なところを向いてぽつんと仔む人影《たたでけとかげ》を発見した。 「悠舜さん!」 「え?ああ、秀麗殿。私に会いたいと言付けをなさったのはあなたでしたか」  はじかれたように秀麗を見た悠舜は、少し|妙《みょう》な動きをした。  なぜか手にしていた包みと秀麗を見比べ、|納得《なっとく》したかのように何度か領《うなず》いたのである。 「……悠舜さん? その包みがどうかしたんですかフ」  その途端《とたん》悠舜ほ何とも言えない顔をした。悠舜にしてはなんとも|珍《めずら》しい、苦笑《くしょう》半分、|呆《あき》れ半分の笑顔《えがお》で! ついと手にした包みを秀麗に差し出した。  −……預かりものなのです。とある人からあなたへの贈《ム! 、》り物だそうですよ」 「え?私にですか?誰からですフ」  悠舜は何と言ったものか考えこんだ。当人からは名を明かさず 「親切で|優《やさ》しくて素敵な」をつけろと言われたが、友人とはいえ悠舜はそこまで嘘《・リ�て》をつけなかった。そこでこう言った。 「おかしな人ですが、あやしい人ではありません。受けとって差し上げてください。よく状況はわかりませんが、 「こっちのほうがずっと美味しいしだそうです」 「は〜」とりあえず受けとった秀麗は、包みからのぞいているものを見て眉を上げた。  しっかり|巾着《きんちゃく》にしまっておいたへこんだ蜜柑と、玖娘からもらった蜜柑を取り出す。その二つと、手渡《てわた》された包みの中の蜜柑は明らかに同じものだったが、繋《l 「な》がりがまるでわからなかった。というか、……なぜ今日はこんなに蜜柑《みかん》と緑《えん》があるのだろう。  ふと、秀麗はさっきの的明を思い出して悠舜を振り仰《あお》いだ。 「そういえば悠舜さん、吏部尚書って紅一族のかたなんですか?」  すかさず笑顔で|綺麗《き れい》に動揺《どうよう》を押し隠《かく》した悠舜はさすが年の功と言える。 「おや、なぜですかっ・」 「同期が吏部に在籍《ぎいせき》してるんですけど、なんだかお仕事をあんまりしない、しょうがない人みたいで。|噂《うわさ》じゃ、経紋様もいつもたくさんお仕事押しっけられてるとかって……」 「…………」悠舜は嘘がつけなかった。 「その、今、うちに紅家の叔父《おじ》様がいらっしやってて……うちの父と違って、すごく優しくてしっかりしていて素敵なかたなんですけど、その方を通じて『お仕事をちゃんとしてください』とかってお願いするのって……やっぱり出過ぎ……ですよね……」 「秀麗殿」悠舜はいつも以上に慈愛《じあい》に満ちた|微笑《ほほえ》みで秀腱を見つめた。 「大丈夫ですよ。何も仰《おつしゃ》らずとも、秀麗殿のお優しいお心は近いうちに必ずや通じましょう。数口中に、李《)》経倣殿《どの》もその同期のかたも、きっと大変なお仕事から解放されると思いますよ」蜜柑を預けた『しょうがない男L(悠舜は 「どうしようもない男』のほうが正しいと思うのだが)が、飛ぶように仕事場に戻《もど》っていくのを視界にとらえた悠舜ほそう断言した。  どんなに仕事が山積していようが、彼が本気を出したらすぐに片が付く。  悠舜は少女の優しさにしみじみと心を打たれた。たとえ一時《いつとき》とはいえー�−完 「……これで吏部も悪夢から救われるでしょう」 「え?」 「いいえ。とりあえず吏部の件より先に、全商連の案件を片づけませんとね」 「いえ、それがー」  秀麗はサッと顔色を変えて、懐《�小ところ》から全商連で預かってきた書翰をとりだした。 「……さっき、凛さんと一級《いっしょ》に行ってきたんです。そうしたら、それだけ渡《わた》されて−」  悠舜は軽く目を陛《みは》ると、書翰を受け取り、|素早《す ばや》く目を適した。けれど、秀麗の予想と違い、その優しげな表情が一変することはなかった。 「その、ご|挨拶《あいさつ》だけでもって、粘《ねば》ったんですけど……」  秀麿はぎゅっと拳を握《こバしにぎ》りしめた。  書輪には、とても短い文が記されていた。 『柴凛からお話は伺《うかが》いました。現在の茶州州牧たちとお会いする気はありません。邸《てい》悠舜殿もいらっしゃらなくて結構です』……徹底《てってい》した、拒絶《きょぜつ》だった。自分一人ではなく、悠舜と一緒に行っていたら、何かが違っていたかもしれないのに。  軽率《けいそつ》な行動を|後悔《こうかい》して白くなるほど握りしめた拳を、悠舜は優しく叩《たた》いた。  見上げると、悠舜はにっこりと笑っていた。 「どうしてそんなお顔をなさるんですか?秀麗殿。これで私たちのお仕事は終わりました」 「え?」 「全商連との|交渉《こうしょう》は私たちの不戦勝です。これで茶州に帰れますよ」  秀麗は穴があくほど悠舜の|穏《おだ》やかな笑顔を見つめた。 「……………………え?」         手巻き噂・  その日、吏部で奇蹟《させき》が起きた。  百戦錬磨《さ1んま》�悪鬼巣窟″吏部の猛者《もさ》たちも、いったい何が起こったのかわからなかった。  素直に酎群と撃流して喜ぶ人格未改造の者(主に新人)、蒜。   これは願望の見せる夢だと柱に頭をぶつける者、五割。  現実だろうが夢だろうがどうでもいいと、徹夜《てつや》続きで笑いながら仕事をする者、二割。  未曾有《みぞう》の大陰謀勃発《だいいんぼうぼつぱつ》の可能性ありと、監査《かんさ》の御史台《ぎよしだい》に文を飛ばす者、一割。  他、無意味に転がる者、くるくる踊《おご》り出す者、烏になる者、池の鯉《こい》に餌《えさ》をやる者、遺書を書く者、舟《ふね》を漕《こ》ぐ同僚を殴《どうりようなぐ》り起こす者などなどが九分九厘《くぷくりん》。  そして吏部でも精鋭《せいえい》中の精鋭、残り一割の官吏は、長官の『本気』を知ると、|一切《いっさい》の無駄口《むだぐち》  を叩かず、侍郎・李鋒仮のもとにすかさず一両日中完全決裁|戦闘《せんとう》態勢を敷《し》き、このまたとない奇蹟《させき》を欠片《か!?�り》も無駄にしないように万全《ばんぜん》の指揮系統を打ち立てた。  ……長官が最後の決裁を終えたとき、吏部から数え切れないほどの魂塊《こんはく》が飛んでいったのを、緯仮は確かに見たと思った。 『ふ……吏部尚書として当然のこことだ』  優雅《ゆうが》に扇を《お∴ノぎ》ひらき、朝日に向かってさわやかに微笑む更部尚書。                                                                  す�−.1し  ありえない長官の姿に、誰《.1一1.4》一人として彼に何が起こったのか訊くことはできなかった。ただ、長官がと《ヽ》あ《ヽ》る《ヽ》蜜柑を買い占《−レ》めたという情報が舞いこんだため、吏部ではその後しばらくその蜜柑を各部署で祀《ま 「》り、旬《L仙ん》を過ぎるまでよく拝んでから仕事を始めるのが日課となった。 「……暇ができたのがいまだに信じられん……」  侍郎室がこんなに広く清々《すがl�が》しかったとは未《いま》だかつて夢にも思わなかった。  冬の陽射《けぎ》しがまぶしすぎて涙が山そうだった。日の光を浴びたら雪より早く溶《と》けるはずだ。 (邵可様に会いたい……)  経仮は切実にそう思った。とにかく色々と癒《いや》されたい。  が、途端《とたん》に玖項叔父の言葉が蘇《よみがえ》った。 『秀麗との結婚《けっこん》だし……がっくりと額を机案《くつえ》にぶつけるように突《つ》っ伏す。   今まではたまりまくった仕事に追われて考えずにすんでいたが、綺麗に片付いてしまった今となってはそうもいかなかった。   とはいえ、丁物《けl・もの》のごとく何もかもしぼりつくしたなかには、思考力も入っている。   今の絳攸には、ろくに物事を考える気力もなくなっていた。   ひと言でいえばもう何が何だかよくわからない状態だった。 (もうどうでもいいからとりあえず癒されに行こう)   黎深《れいしん》に会いに行くのを避《さ》けるだけの理性はかろうじて残っていた絳攸であった。            彗鵠脊−ヾ−簿尋  《ご、射韻V》  その日も、秀麗は登城した。   巾着《lさ人!?やノ、》には、昨日どなたかからいただいた蜜柑をおやつにいくつか入れてある。昨夜その蜜柑を持ち帰ったら、なぜか玖項と父はかなりのあいだ沈黙《ちんもノ\》していた。                                     ヽ山1′1.7・   ちなみに昨夜の夕餉《.1ょ_.r..ょ》はなんと玖狼がつくってくれていた。龍蓮がまたまたどこぞへ消えたことに関してはいつものことなのでさほど驚かなかったが、これにはさすがに|仰天《ぎょうてん》した。克陶が手伝ったというそれらのご飯は(慣れない料理に神経を使ったせいか、克泡は妙にげっそりしていた)大変美《j》味《.・》しく、秀麗はますます玖狼叔父が好きになった。 (それにしても、どうして、 「仕事が終わった』なのかしら……)  秀麗はずっとそのことを考えていたが、やはりまるでわからなかった。  あのあとすぐに、悠舜は誰かからお呼びがかかってしまったので、秀麗はそれ以上訊くことができなかった。悠舜の|微笑《ほほえ》みから、あきらめたわけではないことは察せられるが!。  なので、今日改めて訊きに行こうと登城したのである。  黄楊に邸《やLさ》のずない悠舜は、宮城のなかに用意された室《�や》に|滞在《たいざい》している。その官舎のほうに足を向けながら、秀麗は急に濃《こ》くなってきた冷気にぶるりと身を震《ふる》わせた。ふと顔をLLげると、曇《どん》天《てん》から羽毛のようにはらはらと当が舞《ょ》い落ちてきた。l 「わ…降ってきちゃった」ひゅう、と一陣《.∵∵し・・八》のl風が吹《ふ》き抜《否》ける。身を切るような凍《こご》えた風に思わず目を閉じかけさ雪のなかに舞う鮮《ちで、》やかな紅に気づいて陛目《どうもノ、》する。  ひらり、と秀麗の指先にとまったそれは、雪のように溶けはしなかった。 「え……これ、まさか|薔薇《ばら》の花びら……?」  真冬に17|驚《おどろ》いて首を巡《こうペめぐ》らや——いつのまにか庭院に仔《たたず》んでいた人物に気づく。  秀麗の目がくっと見ひらかれる。  落雷《・りくらい》が、全身を突き抜けたような気がした。  ゆるく編まれた髪《かみ》は白銀。ひとしずくだけ月の光をとかしこんだようなその色は、舞い散る雪のなかでいっそう冴《さ》え冴えときらめく。影《かげ》が揺《け》れるように音もなく庭院から階《きぎはし》にあがり、ま  っすぐに秀鹿を見つめるその鉾は闇夜《!?とみやふと》のごとき|漆黒《しっこく》。雪にあおられてのぞく額も、羽織っていた綾布《あやぬの》をとりさる指先も、青ざめて見えるほどに白く。   早足どころか、時がその流れを止めたかのようにゆったりと歩いているのに、気づけば男は秀麗のすぐ前に立っていた。   夜の膵を縁取《ふらど》る長い随毛《まlつげ》さえ白銀。   けれどもっとも目を《い》惹いたのはそのどれでもなく�。   秀麗はなぜか寒さとは別の意味で小刻みに震えている自分に気がついた。   縫《血》い止められたように動けない秀魔を、男は自分の肩《かた》からはずした綾布で包みこんだ。   感じたのは、暖かさとはまるで別の、芯《しん》まで|凍《こお》るような−|恐怖《きょうふ》。   ゆっくりとその薄い唇が《うrく�げる》会心の笑《え》みにほころぶ.。          げしトム∴ノ   水の微笑。   わけもなく震える秀麗を熱心に見つめる間《やふ》色の膵は、まるで心の奥までからめとるかのように深く、それでいて、彼は秀《ヽ》膵《ヽ》を《ヽ》見《ヽ》て《ヽ》は《ヽ》い《ヽ》な《ヽ》か《ヽ》っ《ヽ》た《ヽ》。   青白い指先が花を愛《め》でるように秀鰯の額に伸《の》びる。   まさに、その指先が触れようとしたときー。 「秀麗!!」   いまだかつて聞いたことのない父の切り裂くような鋭《するご》い声が、|呪縛《じゅばく》を断《た》ち切った。   はらりと、秀麗の肩から綾布が回廊《かいろう》に沈《しず》んだ。          手薄て轟・嘩l与    「悠舜殿《ごの》のところに行くんだろう? 早く行きなさい」   父の厳しい顔の理由も、どうしてここにいるのかも、秀麗は訊《き》けなかった。   父の言う通り、一《ヽ》刻《ヽ》も《ヽ》早《ヽ》く《ヽ》逃《ヽ》げ《ヽ》出《ヽ》さ《ヽ》な《ヽ》く《ヽ》て《ヽ》は《ヽ》と、思った。   それでも最後の理性で回廊に落ちた綾布を拾い上げ、男に差しだした。    「あ…りがとうございました」   声も、手も、そうとわかるほど震えた。   男は秀麗の行動に|僅《わず》かに陛目すると、銀の髪を揺らして微笑んだ。   綾布を渡《わた》したあと、秀麗は男の視線から逃《のが》れるように後《あと》も見ず走り出した。  Wその背に注がれる視線墜く邵可が|遮《さえぎ》る。いつも浮《う》鉢叛る穏和《おんわ》な微笑からは考えられぬ1栂冊線だけで射殺せるような冷酷なる殺気が、その場に渦巻く。  豪                       まなぎ  形  それを受けた男の夜のような眼差しが閉じ、次にひらいたときには、邵可に対するまざれも昭ない憎悪《ぞうお》と隕意《しんい》の焔が《ほむら》宿っていた。   くつくつと男は喉《のご》の奥で笑った。    「君は……どこまで私のものを|奪《うば》えば気がすむんだ? 紅邵可」   光も射しこまぬ湖底のような、深い声音《こわね》だった。   二十前半の|容貌《ようぼう》ながら、まるで目下のごとき侮戌《ごペつ》をもって邵可を呼ぶ。    「我が一族をあまた惨殺《ぎんさつ》し、珠翠《しゅ寸い》を奪い、−私の薔薇姫《ばらひめ》を奪ってLl  那可の感情の消えた双鉾《そうぼう》は揺らぎもせず、雪にも負けぬほど冷ややかにただ男を|貫《つらぬ》く。   「善人面《づ・り》をしてのうのうと暮らしていたとは……さすがは良心を母親の胎内《たいなしい》に残して生まれ出るという紅家の長男らしい。私も長く生きたが、君ほど紅一族らしい男は見たことがないよ」  次の瞬間、《しゅんか人》風切り音とともに、男の白い頬がぱっくりと裂ける。    「1娘《む寸め》の前に、二度と姿を現すな」 「相変わらず身の程《皇り】》を知らぬ男だ……。君に私は殺せないよ。あのときも命からがら賀陽に逃げ込んだのを忘れたのか? ましてや番薇姫も若さもなくなった今の君に」   「貴様も」  |一切《いっさい》の感情を排《はい》す淡々《たんたん》とした邵可の声が激しさを増す雪のなかに響《!?げ》く。    「私を仕留めされなかった」   |一拍《いっぱく》おいて、男は唇をゆるめた。    「……本当に変わらない。後にも先にも、これほど憎《にく》んだのは君だけだよ、邵可」   裂けた頬からトロリと流れる血をぬぐい、邵可に向かって音もなく歩き出す。   流れた袖《そで》の色は、夜明けの薄藍《うすあい》。 「それでも、礼を言おう。私の愛する薔薇姫と、もう一度会わせてくれたことにはね」    「あの娘《∵−》は薔薇姫じゃない」   男ほうっすらと微笑んだ。    「知っているよ。私の薔薇姫は月さえ霞《かす》むほど美しかった」   官服ではない見事な衣裳《しーしよ∴ノ》には、花びらごとに色が違《ちが》う花が散っている。八の花弁それぞれで八色《やくさ》を示す、彩雲華《さいうんか》。細い雲がたなびき、そこからのぞくのは欠けるものぞなき望月《もちづさ》。    「私の薔薇姫ではないけれど、見つかった今、私のものを返してもらうよ」   すれ違う。   舞う雪さえ溶《と》けそうなほどの殺気が渦巻き、交《か》わす視線は互《たが》いに水のように。   邵可の言葉を封《・ヤう》じるように、男の笑みがますます深くなる。    「私のものだよ、邵可」   もう一度、彼は告げた。ゆるく編んだ白銀の髪がたなびき、沓音《くつおと》が高く響く。   祁可はふと、視線を背後に向けた。 「酢摘《しゅすい》嘉絹朋縞銅盤瞑鮮紅れ上して後じさった。�  男は、真夜中の隙でかつて一族にいた娘に視線を送る。  ⊥ 「私から薔薇姫を奪ったあげくに殺して、珠翠を兇手《さようしゅ》にし、今なお利用しっづけるか。君らしいよ、冷酷無比な死の運び手。先代黒狼《こノし、ろう》を殺したとき、君の存在に気づけばよかったよ」                                  41.1−′ょ,ヽ   珠翠はとっさに反駁《−1+J′l⊥》しょうとしたが、本能的な恐怖のあまり声が出なかった。    −何十年も同じ姿のままで君臨しっづける、一族の長。   回廊の向こうに、月と彩雲華を散らした夜明けの衣が消えていく。  緻家《ハノようけ》商紋《ら人》�月下彩雲《げlつかさいうん》″�そのなかでも望月の紋を使えるのは一族でただ一人。   異能を操る神祇《あ小∴′‥しんヾ》の血族白−綜家当主、その人のみである。             混在   l葦l葦   むちゃくちゃに回廊を駆《か》けていた秀麗は、急に誰《だJl》かに腕《うで》をとられてたたらを踏んだ。 「どうなさったんです、お嬢様」《‥」トそつ�」ょよ》     セい——り人 「静蘭!」   本当に偶然《ぐうぜ′在》、|爆走《ばくそう》している秀麗を見つけたのだがー一雪が降るほど寒い日だというのに、息を切らして糠に滝《たき》のような|汗《あせ》を流している秀麗に静蘭は不敏《・」しん》な顔をした。 「……何か、ございましたか?」   秀麗は|優《やさ》しい静蘭の顔を見て、泣きたくなるほどポッとした。   |脳裏《のうり 》から、夜の化身《!?し人》のような青年の姿が離《はな》れない。          げしよ∴ノ   氷の微笑。   この世のものではない、ぬぐいがたい違《.1ヽ》和《。一一1》感。   何もかも退屈《たい! 、つ》でつまらないと言っていた茶朔泡《ささくじゆ人》でさえ、『生きて』、いたのに。   あ《ヽ》の《ヽ》人《ヽ》は《ヽ》、違《ヽ》う《ヽ》ー��。   優しくしてくれたのに、思いだすと背筋に震《ふる》えが走る1恐怖の理由がわからない。    「なん……なんでもないの」    「なんでもないわけないでしょう。震えていますよ」   静蘭に二の腕をとられ、秀麿は観念した。こういうときの静蘭は絶対に引かない。   秀麗は、訊くべきではないと心のどこかで思いながら、震える唇をひらいた。    「あのね、静蘭……その、色の違う八枚の花弁の華《はな》をあしらった家紋って……見たことある?」  秀麗も数多《あまた》ある家紋のすべてを覚えているわけではない。むしろそういった家教育はほとんど受けていないので、知っているのは本当に有名なものだけといっていい。なので、知らない家紋があるはうが多いのは当たり前なのだが−。   薄い、藍《あい》色。   王家の旧姓《きゅうせい》じ蒼《そう》氏にも通じるような、あの色が、何かを告げる。  J不意に、つかまれていた二の腕が|圧迫《あっぱく》を受けた。  … 「……どこで、それを見たん空すか」  γ  静蘭を見上げた秀麗は息を呑んだ。  .いまだかつて、これほど|鬼気《きき》迫《せま》る顔をした静蘭は見たことがなかった。    「さっき……会って」 「会…つた!?この城でですか!?」 「ええ……。静蘭、どうしたの?」   静蘭はようやく、今の自分がどんな顔をしているか思い至り、冷静になろうと努力した。 「お嬢様が……会ったんですか? 何か、されたりとか」 「雪…が降ってきたから、その人が自分の衣《ころ・も》をかけてくれようとしてくれて」   父が寸前で割り込んできたことは、なんとなく言えなかった。   静蘭は|妙《みょう》な顔をした。何かを考え込むようにその双蹄《そ∴ノぼう》が色濃《いろこ》くなる。 「……月、は、ありましたか」 「〓1・」 「家紋と|一緒《いっしょ》に、月の絵なぜ」 「……そういえば、満月が描《人�》いてあったわ」   くっと、静蘭は蛙目《ごうもノ、》した。 「満…月−」   秀麗の腕から手を放し、表情を隠《かく》すように自らの額を覆《おお》う。 「……静蘭?」 「いえ……な.んでもありません」   静蘭は|精一杯《せいいっぱい》笑ってみせた。 「……少し、気になることがあるので、そのかたのことはこちらで調べてみます。それまで誰にも言わないでもらえますか?」   はっきりと答えを告げられないことで、秀麗は逆にポッとした。   あの人は、誰−その、開いてはいけない|扉《とびら》の向こうの答えを訊《ヽし》かずにすんでよかったと。    「……わかったわ」    「すみません、送って差し上げたいのですが……Llコ   「ああ、いいのよ。お役目があるんでしょう?」   秀麗は静蘭をじっと見つめて、今度こそ心から笑った。    「静蘭が誰かと飲んで帰ってこない目がくるとは思わなかったわ」   静蘭はうっと言葉に詰《つ》まった。   羽林軍で連日飲みっぱなしだったせいで、酔《よ》いを覚ましても酒気はどうしても抜《ぬ》けず、郡司邸《てい》に戻《もビ》ったときはしばらく秀麗にも近づけなかったくらいだ。    「……す、すみませんあのときは……」    「どうして? 嬉《うれ》しいわ。若いくせに、静蘭たら私と父様の世話ぽっかり焼いてるんだもの」媚 「若い……」綱 「心配だったのよ。全然持ないし、習もはず�はいし。私や父様に、話せない。とだっで杉絶対あるはずだし。今は燕青もいないし。ふふ、自慢の家人が、羽林軍でも人気者なんて、位相しいわ。�軸に、なんだか、少し吹《ふ》っ切れたのね?」  静蘭は微笑した。 「……お嬢様、もし私が役立たずになったらどうします?」   秀勝は目を丸くした。 「なに、それ? ああ、老後のこと? |大丈夫《だいじょうぶ》よ、もし静蘭がボケて、そのとき奥さんも子供さんもいなかったりしたら、ちゃんと私が|面倒《めんどう》見るわよ」  役に立つか立たないかなど、一緒にいることの理由でもなんでもないのだと。   考えるまでもなくそう思ってくれている秀麗に、静蘭はますます微笑む。 「ありがとうございます、お嬢様」 「へんなこと訊くわわー。ほら、行くところがあるんでしょうっ」 「お嬢様は、これからどちらへ? L  秀麗はちょっとうつむいた。  さっきまで悠舜のところへ行こうと思っていたが、……なんだかそんな気も失《う》せてしまった(  まだ、あの銀髪《ぎ人はつ》の青年の面影《おもかげ》が、くっきりと脳裏に焼きついて離れない。   どこか静かなところで、ゆっくりと落ち着きたかった。 「……府庫《ふこ》に、行ってくるわ」         ・専会報・  (ふ、府庫はどこだ……)   繚牧がそ《ヽ》の《ヽ》事《ヽ》実《ヽ》を認めるまでにかなりの時間を要した。   ある扉の前で立ち止まり、絳攸は一人ダラダラと冷や汗を流した。   府庫はいかなるときでもなんとか迷わずに辿《たご》り着いていた、いわば経仮にとって最後の砦《とりで》であった。それさえわからなくなった事実を、経仮は頑《がん》として認めたくなかった。 (あ、ありえん。なんだこれは! 夢か!?悪夢か!?実は眠《ねむ》ってるだろ俺!)  府庫に辿り着けな鉢いたら、告∵帰り道もわからない。わし、王上の側近・若手随一の出世頭吏部侍郎、宮城で迷って、餓死。   比喩《!?ゆ》でなく文字通りひからびた自分の姿が思い浮《う》かぶのを、必死に追い払《はら》う。 (そんな間抜けな死に方絶対できるか  ー  �].つつつ‖‥)   俺は迷ってない、と自分に言い聞かせている経仮には、遺行く人に 「府庫はどこですか」などとは死んでも訊けなかった。なぜなら自分は迷っていないからだ。絶対迷ってない。 (ちょ、ちょっと疲《つか》れてるだけだ。こう、日を休ませれば−)   しかし何度|瞬《またた》きをしても見覚えのない光景は変わらない。経倣はぎりりと歯を鳴らした。 「ふ、府庫……は」 「ほい? もう着いてらっしゃるじゃないですか経倣様」   すぐ後ろまで追いついていた秀麗は、そう答えた。   扉の前で発見した、石像のように動かない人影《けとかげ》とその理由まで察した秀麗は、絆牧の衿侍《きょうじ》を傷つけないように、何気ないそぶりですぐ横手の扉を引き開けた。 「いつもと違《ちが》って裏側からいらっしゃったんですね」  その扉の向こうには、膨大《ぼうだい》な巻書の並ぶ棚《たな》が延々と連なる、見慣れた光景があった。  しかし、今の経仮にはそれさえ見えなかった。  心の準備もなくいきなり背後からかかった声に、真っ白になっていた。 「経倣様? どうしたんですか?」  |訝《いぶか》しげに首を傾《かし》げてのぞきこんでくる秀麗を|認識《にんしき》した途端《とたん》。 『すでに見合い話を届けてある』  |脳裏《のうり 》に大音塁で玖娘の言葉が反響《はんきょう》し、よろめいた絳攸は後頭部をまともに扉の角で打った。  ドガゴソ、と世にも悲しい音がして|一拍《いっぱく》−絳攸はあまりの激痛に床《ゆか》に座り込んだ。 「      つつつ!!」 「だ、大丈夫ですか経倣様!?い、いまものすごい音がしましたよ!?」 「−つ、へ、平気、だ!」   むりやり立ち上がって後ずさると、あると思っていたところに扉がなく�経倣はたたらを      hrヽ’踏《−》んで後ろ向きに府庫に入った。 「あー! 緯紋様うしろに|椅子《いす》が!」   しかしその忠告も間に合わず、椅子に引っかけられた絳攸は見事に足をすべらせ、今度は卓子にもう一度後頭部から|激突《げきとつ》したのだった。   ーしばらくして。 「……お疲れなんですね縁故様……」   秀麗は濡《ぬ》らした手巾《てぬぐい》を経仮に渡《わた》しながら、しみじみとそう|呟《つぶや》いた。   経倣はもう何を言う気力も失せ果て、|黙《だま》って手巾を後頭部に当てた。 「そういえば、お仕事は終わったんですかフ」 「あ?ああ……まあ、なんとか奇跡《\、け】\�》的にな……」   原因不明のちょっと気味悪い奇跡ではあったが。   秀麗はそれを訊くと、日を丸くした。……すごい、悠舜の予言が当たっている。 「お疲れさまでした」 「……なんか別の意味でどっと疲れたがな……」   素直《づなお》に奇跡と喜ぶには、終値はあまりにも黎深を知りすぎていた。  (……それにしても、もしや開いてないのか?)   少しばかり顔色が青く、静かな気もするが、秀麗はいつもとたいして変わらない。もしや例の件を知らないのかと考えると、心の余裕《よゆう》が出てきた。   そこで、ようやく回り出した頭で玖項の提案を試《ため》しにぼーっとこねくりまわしてみた。 (秀麗と結婚《lす�こん》すると……ほっ、邵可様が俺の義理の父になるのか!)   それは経故にとってものすごく素晴らしい話だった。黎深と邵可で、ちょうどナこかの釣《つ》り合いがとれるような気がする。父茶などちょっとした問題に過ぎない。だが。 (……秀麗の義理の父も黎深様になるのか……)  それは秀麗にとってかなりの不幸だ。しかも縁故にとってもー今だって邸《し.1′》を訪ねるだけで抜け駆《ポ》けだなんだと散々嫌《いや》みや恨《うら》み言を言われているのに−『旦那《だんな》』になったら陰《かげ》でどんな|被害《ひ がい》を受けるか考えるだに恐《おそ》ろしい。締仮にかこつけて今以上に秀麗の周りにポコポコ神出鬼《し人しゅつき》没《ぼつ》しそうでもある。 (あー……静蘭もかなりの確率でついてきそうな気がするしな……)   なんだか結婚というよりいじめられに行くような気分になってきた。幸せはどこだ。 (……そう考えると、秀麗と結婚する男は相っっ当の根性と覚悟《二′れじよ∴ノカくこ》を要するわけか……)  かなり他人事《!?とご・二》な感じでそう考えるとともに、いまだにあきらめない劉輝《り沌うさ》に心底感心した。 (あれは、根性だけは本っ当にあるよな……)   しみじみとそう再確認する。  秀麗と結婚すると言ったら、ぴーぴー泣く……ことはなく、多分、ちょっと笑って 「そうか」と.だけ言うだろう。何一つ束縛《そノ、げく》することのない彼は、その|覚悟《かくご 》もしているはずだった。  劉輝はきっと変わらない。  けれど、経仮のなかで何かが変わるだろう。劉輝に対しても、秀麗に対しても。   いま、このとき、紅家や秀麗や自分の事情も何もかも抜《ぬ》きにして、経仮は純粋《じゅんすい》に、それほあまり嬉《うれ》しくないと、そう思った。 (なんだ、そうか)  ふと、なんだか|妙《みょう》におかしくなって、経仮は笑い出した。   自分は現状で|充分《じゅうぶん》満足しているのだと、気づいた。   黎深の助けになれたらと思う。誰《バ∫l》はばかることなく、紅家の二員になれることも惹《ハ‥》かれる。   けれど−今のところ、どうやらこれで自分は幸せなのだ。   ……玖項の言葉が的を射ているのは|間違《ま ちが》いない。   状況を鑑《じょうきょうかんが》みて政略的に判断し、いつかそういう選択《せんた′\》をする日が来るかもしれない。   けれどそれは、決して誰かに対して後ろめたい決断であってはならなかったし、そもそも今はまだ、単なる未来の可能性の一つに過ぎない。 (……あー……玖琅様の掌《てのひ∴》でいいように操《あやつ》られてたな……)   ついうっかり大問題に東面している気がしたが、よく考えれば全然そんなことはなかった。    −一方、百面相をしまくっている経仮に、秀麗は青くなっていた。   さっきの銀髪の青年が気になってついつい考え込んでいた秀麗だったが、経仮の異変に気づいたときからそんなのはどこかへ吹き飛んだ。   扉《しら・=り》に頭をぶつけたことからしてちょっとおかしかったが、これはただごとではなかった。  (わ、笑ってるし!)   まずい、相当打ち所が悪かったとしか思えない。 「そ、そうだ、経倣様。蜜柑《みかん》食べましょう蜜柑!!おやつにもってきたんです!」   ビシッとつきつけられた蜜柑を見て、経仮は固まった。    −蜜柑を大量購入《こ∴ノにゅう》したという上司。 (……れ、黎深様……)  誰もが訊《き》けずにいた宇宙の神秘にも優《まさ》るトアル謎《なぞ》が一つ解けたことを絳攸は知った。   やはりというかなんというか、吏部の悪夢を救ったのはこの少女であったのだ。 「そういえば邵可様はどこだ?」  秀麗と卓子に並んで蜜柑を剥《む》きながら辺りを見渡《みわた》したが、やはりいない。 「……さっき回廊《かいろう》で会ったんですけど……」   秀麗の脳裏に、再びさっき出会った青年の姿がよぎる。   父も、いつもと少し様子が違っていた。 「そうか、いないのか」   そして経仮は妙に複雑な気持ちで例の蜜柑を剥いた。 「……最高級晶質の紅州産蜜柑か。紅家が秘蔵の改良法を加えていて、かなり貴重なやつだ」 「え、そうなんですか!?知らないかたに、こんなに頂いちやってよかったのかしら……」 「……もらえるものはもらっとけ……」  心なしか維仮の蜜柑を剥く速度が増した。 「よく、無事で帰ってきたな」  絳攸は朝質の時の秀席を思い出した。思えば落ち着いて話をするのはこれが初めてだった。 「成長したな」 「だと、いいんですけれど。経倣様にそう言われるのがいちばん嬉しいです」   ほのぼのとした空気が漂《ただよ》う。 「……そういえば経倣様、ちょっとお伺《うかが》いしていいですかフ」 「なんだ?」 「その、大きな案件を通すときですね、あるところに協力要請を頼《ようせし.たの》んだら、話をする必要はないって断られたとして」  ふと、絳攸は秀麗に視線を向けた。 「でも、『不戦勝』っていうのは、どういうことだと思いますか?」 「……全商連か」 「ば、バレバレですね……」 「|噂《うわさ》は聞いているからな。一つ言い当ててやろうか。お前が一人で行ったときのことで、かつ鄭悠舜殿《ごlの》はこなくていいって言われたろう」 「な、なんでわかるんですか!?」 「俺が全商連でもそうするからな」  経仮は蜜柑をべりペりと割った。   秀麗が工部尚書管飛翔《かんひしょう》を|攻略《こうりゃく》したのち、郵悠舜は本領発揮とばかりに精力的に水面下で動いた。水も漏《も》らきぬ構えで次々と先手を打ち、各中央省庁に単独でさぐりを入れ、うまく言質《げんち》を  取って次々と内諾《ないだく》を引き出すあの手腕《Lゆわ�ん》は、耳にするたび唖然《あぜん》としたものだ。  噂には聞いていたが、まさかここまで駆け引きに長《た》けているとは絳攸も思わなかった。 (俺だって悠舜様と向かい合って最後まで呂《ぜ》矩∵を言わないでいる自信がない……)  簡単に言えば、全商連は鄭悠舜と正面切って|交渉《こうしょう》するのを逃《に》げたのだ。全商連の情報網《も・ブ》をもってすれば朝廷《ちょうてい》での悠舜の交渉術は簡単に耳に入るはずだ。下手に全商連に呼んで、不確定要素が多く、いつ置《つまず》くか知れぬ案件にうっかり呂疋』など言ってしまったら酒蕗《しやれ》にならない。 (それにー)  締仮は難しい顔をして考え込みながら蜜柑を分けている秀麗を見下ろした。  破けた薄皮《〕寸かわ》から滴《したた》った汁《しろ》が、秀麗の指先を濡らしていることに気づいた緑仮は、その手をとって、自分の手巾《てぬ〜、い》で丁寧《てい山い》にぬぐってやった。  秀麗の指先は経仮より温度が低く、ひんやりとしていた。冬場に相変わらず庖厨《だいごころ》仕事をしているせいか、小さな手がずいぶんあかざれてささくれだっている。 (あとで何か塗《ぬ》り薬でも送っておくか)  今の状況になんの疑問もなく、そう思う絆仮。 「……よく考えてみろ。長期的な案件を立ち上げるとき、いちばん重要なのはなんだ」  秀麗は|僅《わず》かに眉根《まゆね》を寄せー次いでハッとしたように緯倣を見上げた。 「そっか。だから�『私たちの役目は終わった』って……」  経仮は微《か寸》かに笑《え》みを|浮《う》かべた。 「そうだ。あとはー」 「……あら?悠舜さん」   ふと絳攸の後ろに目をやった秀麗は、慌《あわ》てたように扉の陰《かげ》にひっこむ悠舜を見てしまった。   その瞬間、《しゅんかん》絳攸はぎょっと秀麗の手を放した。 「悠舜さんっ・・どうしたんですかー?」 「……お|邪魔《じゃま 》をして申し訳ありません……」   観念した悠舜ほ、しおしおと府庫《・誹・.1》に入ってきた。……ああ、足がうまく動けば、こんな失態はせずにすんだものを。 「せっかくの良い雰囲気《ふんいき》のところを……」 「おおおお久しぶりです悠舜様! ご|一緒《いっしょ》に蜜柑はいかがですか!?」                                                                                                                                    .ノ   すかさず、今度は締仮がビシッと蜜柑を《′》突きつけた。 「……ど、どうか……あの人には内緒《ないしょ》に……」   秀麗に聞こえないように必死に小声で頼みこむ経仮に、悠舜はこめかみを押さえた。やはりというかなんというか、……黎深は養い子に対しても変わっていないらしい。しかし�。   久万ぶりに会う友人の養い子をとっくりと見つめ、しみじみと悠舜は心の中で独白した。 (なんと黎深にはもったいない青年に育ったのでしょう……)  |奇跡《き せき》としか思えない。 「悠舜さん、どうなさったんですか?」   秀麗に用事があったこともあり、若人《.一一1、し.——ヽ》の語らいを邪魔してしまったことを気に病みつつも、悠舜はおとなしく絆仮と秀麗の手を借りて席に着いた。 「あ、ええ。……秀麗殿、昨日、私があるかたに呼ばれて、あなたとお別れしたことを覚えておいでですか」 「あ、はい」 「実はそのかたから、あなた宛《あて》にお文《ふみ》を言付かって参りました」  秀鹿は目を|瞬《またた》いた。 「……私に、ですか? え、ど、どなたからですかフ」   戸惑《とまご》いながら差し出された書翰《しよかん》を受け取った秀麗に、悠舜は差出人の名を告げた。 「異州州牧の、擢埼《かいゆ》様です」  |一拍《いっぱく》おいて、秀麗と絳攸の目が|驚愕《きょうがく》に見開かれた。   秀麗の|脳裏《のうり 》に影月《えいげつ》の面影《おもかげ》がよぎる。——そして、ずっと心のどこかで引っかかっていた、影月に関する『矛盾《むじゅん》』が、このときはっきりと形をとった。  1        《一》勅命㈳翁槍  一   古い、書物の|匂《にお》いがそろりと漂う。   影月が少し窓を開けると、凍《こご》えるような夜気がすべりこみ、くるくると書庫で踊《おど》った。  時は深更《し人二う》−月はとっくに中天にかかり、しんしんと音もなく闇《やみ》が降りつもる。  不意に、書庫の扉が微《とぴらかす》かな音を立てた。  窓辺で月を眺《なが》めていた影月は、振り返ってポッとしたように|微笑《ほほえ》んだ。 「あ、香鈴《こ.りりん》さん。きてくださってありがとうございますー」  香鈴は青ざめて固い表情のまま、扉Uから微動《げごう》だにしなかった。  影月はゆっくりと香鈴に近寄ると、手にした毛布で香鈴をくるみこんだ。   その手を引き、書庫の扉をそっと閉じて。  香鈴に向き直った影月は、その白い煩《ほお》を次々とこぼれおちる涙《キみだ》に気づいた。  困ったように、影月は首を傾《.ァlりし》げた。 「……泣かないでください」   おずおずと頬に伸《の》ばした手は、香鈴によってはじかれた。 「……るんですの」 「え?」 「どうして、今さら|優《やさ》しくなさるんですの。ずっと、知らないふりをして|距離《きょり 》を置いてー」今さら−それだけが最後にできることとでもいうように。  日をつぐんだ影月の顔から、微笑みが消える。  それでも、彼ほ 「影月』のままだと、香鈴にはわかる。出違《であ》ってから、一年も過ぎてはいないのに−わかってしまう。 「そうして何一つおっしゃらずに、わたくしの前から姿を消そうと考えているくせにー!」  別れが、くる。    「いやです! こないで。あなたなんて!」   影月の腕《うで》が、香鈴に伸びる。    「あなたなんて知りませんわー」   別れが、くる。    「あなたなんて大嫌《だいさ・リ》い−!」   泣きながら暴れる香鈴を、影月の両腕がおさえこみ、乱暴に抱《だ》きすくめた。   それは、はっきりとした意志を示す、強い男の腕だった。    「僕は好きです」   その言葉を聞いたとき、香鈴はがむしゃらに影月にすがりついて泣いた。    「じ行かないで……!」   影月はきつく|瞼《まぶた》を閉じた。  欄干…本当は、何も言わずに行こうと思ってました」  昭 「�お願い……」  γ《ノ》 「でもあなたにだけは……」    「1どこにも、行かないで……つ」    「すべてを話してから、行きます」  香鈴の目から、|大粒《おおつぶ》の涙がこぼれた。   このまま、雪のように消えてしまえたら、どんなに幸せだろうと、思った。  本当に、直前まで何も告げずに出ていくつもりだった。  言葉を交《一り》わせば、こんなふうに泣かせてしまうとわかっていた。  なのに気づけば彼女の卓子に、場所と刻限を記した紙を置いて。  どこまでもその優しい心を傷つけたまま、願ってくれたたった一つの想《おも》いさえ叶《かな》えてあげられずに、残酷《ぎ人二ノ、》な真実だけを置き去りに、影月は彼女のもとから去る。  出逢ってから一年も過ぎてはいないのに。 「……香鈴さん」  物語から抜《ぬ》け出たお姫《けめ》様のようだと、初めて会ったときに思った。  肌埋《きめ》棚かい雪のような肌《はだ》、艶《つや》やかな射干玉《ぬばたま》の髪《かみ》、赤く小さな唇は蕾《くちげるつぼみ》のようにほころび。ほっそりと可憐《カー1ん》に美結姫君は、百で、大切総状切に育てられ.絡きたはわかった。  けぶるような睫毛に囲まれた黒目がちの瞳だけが、いつも愁いを含んで。  その愁いが晴れたなら、どんな微笑みが見られるだろうと、思った。  小柄《こがら》な影月よりもさらに華著《きやしゃ》で、抱きしめたら壊《こわ》れてしまいそうなほどもろく惨《はかな》く見えて、それでいて意地っ張りで心優しい、年上のひと。   この、短い|生涯《しょうがい》の中で、恋《−Jし》ができるなんて思わなかった。    「僕のために、すべてのお酒を遠ざけてくれて、ありがとうございました」   ある日を境に、州牧邸から|一切《いっさい》の酒がなくなった。飲酒用は勿論《もちろん》、数滴香《かお》りづけに混入させてある調味料まで姿を消した。燕青が酒の匂いをさせて帰ってくれは烈《れつわ、》火のごとく|怒《おこ》って衣を剥《ま》ぎとり、すぐさま洗濯《せんたく》をして。   そして|怯《おび》えるように一瞬だけ向けられるその瞳に、彼女が知ってしまった《1ヽヽ,ヽヽヽ》ことに気づいた。    「……陽月《よ∴ノげつ》に、会ったんですね?」   塞《・ルき》がれた耳元にそっと|囁《ささや》くと、黒目がちの|綺麗《き れい》な瞳が、ビクリとひらいた。   影月は小さく苦笑した。    「あいつが、そこまで余計なことを言うのは|珍《めずら》しいなぁ……」    「——−あのかたはなんなのです」   まるで、影月のなかにいるもう一人の存在を睨《ね》めつけるように柳眉《りゆうげ》を逆立てーけれど涙の前に怒《しカ》りはもろくも|崩《くず》れおちる。 「招霊融《うば》��っ酢溌絹針『ややあってし� 「……それは違います」    「え�」   《l》 「陽月が、僕に命をくれたんです」  香鈴を抱きしめながら、影月はゆっくりと目を伏《ふ》せた。 「とうの苦に尽《つ》きるはずだった僕の|魂《たましい》を、陽月は繋《つな》いでくれました」  十年前に死ぬはずだった子供。   四年前に願った我値《わがまま》。  交わした命の契約《けいやく》。  陽月は、すべて叶えてくれた。   いつかくる、そのときと引き換《か》えに−。  轡胤�潮恩冊㈽㈽㈽㈽出川鍼  lH生きたいか?』   十年前−父に殺されかけ、闇に落ちていくなかで、深い深い声がした。 『お前の人生は、生まれ落ちてから死ぬその|瞬間《しゅんかん》まで、ログなもんじゃなかったろうがh        りい、・\lJ   侮蔑《.》のこもったその声に、四歳の自分が何と答えたのかはわからない。   堂主《ごうLlゆ》様の必死の手当てをもってしても絶望的だった生存。   覚えているのは、理由も何もない、ただ心の底から沸《わ》きあがる、|強烈《きょうれつ》な生への渇望《かつぼう》。   そして、願いは叶えられる。   いつか必ずくる、『そのとき』までの、つかのまの猶予《ゆうよ》と引き換えに。   ! 影月《えいげつ》は『彼』.の『影しとなった。                         増加         強叫         傍 「・…陽日《ようげつ》がなんなのか、僕にもわかりません」  影月は|書棚《しょだな》に寄りかかりながら、沈《しず》みゆく月を見つめた。  今夜と同じ、僅々《▼�ワこう》と照る嘲笑《あぎわら》うような三日月の下で、彼は契約を交わした。 「けれど、そのときから僕の体は陽月のものーになりました。死にかけてる僕の魂と、陽月の魂では、陽月のほうがずっと強くて、僕は陽月に『生かされ』なくてほ存在できなくなったんです。陽月が出ているときの僕に|記憶《き おく》がなくて、陽月がすべての記憶をもっているのはそのせいです。僕の体はもう僕のものではなく、間借り人は僕のほうになったんです」ぎゅっと、香鈴《こ−つり人》が影月の衣服を強く握りしめた。 「……そんなの……そんなのおかしいですわ。それではまるで口!『陽月』という名前の妖《あやかし》に、あ、あなたが乗っ取られていくようなものではありませんの�!」不可思議な力をもち、影月を生かしてくれた『陽月�影月も幾度《いくご》となく、彼の正体をそう《ヽヽ》かもしれないと、考えた。 「そうですね。でも、その日妖』は僕にいくつもの約束をくれました。体の主人《あるじ》となった陽月は、好きなときに好きなだけ僕を押し込んで『外しにでることができました。こうしている今も、本当は陽月の気分次第《しだい》で『僕虹l1.は簡単に『消えて』しまうんです」びくんと、香鈴の体がはねた。  影月は小さく|微笑《ほほえ》みながら、もう一人の自分となった彼を思う。  いつまで保《も》つかわからないが、長くて二十年−と、陽月は宣告した。  尽きかけた影月の魂は、陽月の助けなしには生きられない。けれど強すぎる暢月の存在は、  共存するだけで影月の魂を徐々《じよじょ》に削《けず》っていく。特に 「陽月hが 「外』に出れば出るほど、その力に押されて『影月』の命は消えていくと、彼は言った。  陽月の気まぐれ次第で、いつでも『影月』は消してしまえるのだとも。   けれど、陽月《かわ》はそれをしなかった。   それどころか、『酒が入ったら』というたったそれだけの条件で、ほとんどの時を影月に使わせてくれた。酒を飲まずに記憶を失うこともあったが、そんなのは本当に稀《まれ》だった。   |馬鹿《ばか》馬鹿しい、と陽月なら言うかもしれない。   けれど確かに、影月の魂の命脈が自然と尽きる、ギリギリまで、陽月は待ってくれた。   長くて二十年−けれど、本当は『そのとき』がいつくるかわからない。   明日か、明後日《あさつて》か、ひと月後か、一年後か−。   文字通り死と隣《とな》り合わせでも、生きることを望んだ『影月《じぷん》』の『願い』。   そして、白銀の世界で、もう一つの願いをも、彼は叶えてくれたー�。    「……ああ、夜が、終わりますね」  L  白くなるほど影月の衣服を掴《つか》む香鈴の手を、そっと撫《な》でた。  … 「錯射村に、行かなくてはなりません」  ヽW《ょ》 「この……大変な時期に……つ!?」 「だからこそです。僕は、僕にできることをしなくては」   星が流れたとき、|覚悟《かくご 》を決めた。残り少ない最期《さいご》の時まで、州牧の任を全《圭つと》うしようと思った。  けれど、運命の御子《みて》は車輪を廻《圭わ》す。  通りすぎたはずの過去が、いま再び目の前に現れる。 「……西華《せいか》村は、同じあの病で全滅《ぜんめlつ》しました。もう、僕の愛した村はどこにもない……」  雪のなかに埋《うず》もれ、今も静かに|眠《ねむ》る最愛の故郷。  何一つできずに死を看取《一�と》りつづけるしかなかった、かつての自分。 『朝廷《らようてい》が地方にお役人を派遣《は!?人》するように、お医者同士をつないで、連絡《わ∵人∴∵、》を取り合える方法とか、場所とか、あったらいいなって、時々考えるんだよ。そこに行けば、色々なお医者と会えて、治療《おり‖/よ〓J》法を知ることができて、お薬も治療器貝も、なんでもそろっているようなねし西華村を病が襲《トイJそ》う前に、時々堂主様がポッッと漏《一じ》らしていた言葉。  正直、影月は耳半分だった。それまで、堂主様が知らない病などなかったからだ。亡《売》くなった患者《シ・lぺ∵十》のほとんどが、もう手を尽くしようがないほど進行した末期患者だった。わざわざ西華村まで足を運ぶ外部の患者の多くが、街や都でも匙《さじ》を投げられた病人や怪我人《!?がに人》で、革《わ・り》にもすがるように|噂《うわさ》だけを頼《たよ》りに西華村をポッリポッリと|訪《おとず》れる。動けないと文《ふみ》をもらえば、堂主様自ら山を降りて赴《おちむ》いた。そのほとんどの命を、堂主様は救ってきた。 『でもね影月……他《はか》のお医者なら、もっと別の方法で救えていたかもしれないんだよ? −.  患者さんを失ってしくしく泣当堂主様を慰《なぐさ》めれば、いつもそんな答えが返ってきた。  だから影月は国試を受けて、官吏《カ人り》になろうと思った。偉《えら》くなったら、堂主様の願いをきっと叶《かな》えてあげられる。いつまで自分に『時』が残っているかわからないけれど−。    ー迷っていたことは否《し.な》めない。堂主様の傍《そば》にあることこそが、影月の幸せだったから。   けれど、運命のあの目。   初めて、堂、王様の言葉の意味を知った。   血相を変えて病の原因と治療法を、書物をひっくり返して猛然《もうぜ人》と調べはじめた堂主様。そうしているうちにも次々と人が|倒《たお》れていく。調べている時間などない。   名医と呼ばれる人は何人もいる。風の噂にも聞く。王家直属の医官は勿論《もちろ人》、彩《きい》七家の専属医師も各家の援助《えんじょ》を受けて相当の知識と技術を蓄《たくわ》えているのは間違いない。なかにほあの奇病《きげよう》の治療法を知っている人もいたかもしれない。けれど! どうやって連絡を取るという。彼らの存在の大半が極秘《ごくひ》にされ、どこにいるのかさえ、わからぬなかで。   堂主様があちこちに飛ばした文の返事が、返ってくることはついになかった。   そして、西華村は死と|静寂《せいじゃく》の雪のなかに埋《うず》もれる。 『私一人にできることは、とてもとても少ないんだよ、影月−……』   すべての墓標をつき終えたあと、今度こそ、死にものぐるいで、影月は官吏を目指した。   最初で最後の一度きりの国試に、全身全霊を賭《ぜんれし、か》けた。   《一》たとえ大官になる前に時が尽きてしまっても、それまでにできることは、きっとある。     《一》こんなに早くに地位と権力をもらえるとは、さすがに思わなかったけれど。   希望は、すでに秀麗と悠舜に託《しゅうれいゆうしゅんた1、》した。彼女ならきっと叶えてくれる。   あと、自分に、できることは白。  影月は、香鈴の細い二の腕《うで》をそっとつかんだ。 「州牧のお仕事は、僕でなくともできます。若才《めいさい》さんも戻《もご》ってきました。けれど、今の虎林《こりん》郡には、一人でも多くの医者が必要なんです」それが最後の別れと、香鈴にはわかった。  時が残っているのなら、思慮《し】リlよ》深い影月がこんなふうに姿を消そうと思うはずがない。  もう一人の州牧・秀麗が|帰還《き かん》してくるまで州牧としての義務と責任を果たし、引き継《つ》ぎを終えてから医者として虎林郡に飛ぶことを選択《せんたく》したはずだ。  けれどそれさえ待てぬほどに、影月の残りの時間は�。 「……つ、いつまで、なのです……つ!?」 「……僕の|魂《たましい》の半分をもっていたひとが、秋の終わりにこの世を去りました」  天を翔《か》けた星は、自分の魂の半分。  それが尽《つ》きたということは、もう半分の影月の命も、ほとんど残ってはいない。  ここまで保ったのは、自分には堂主様と違《ちが》って陽月がいたからだ。けれどそれもー。 「……多分、ひと月……保たないでしょう。秀麗さんを待って州府で逝《.油》くよりも、僕は最期の時まで、一人でも多くの人の命を繋《つな》ぎとめる道を選びたいんです」迷いのない眼差《まなぎ》しに、香鈴の|脳裏《のうり 》に陽月の言葉が蘇《よみがえ》る。 『いつ死ぬかわからん体を抱《かか》えて、まあよくやったほうだ。やりたいことをやれるだけ、つかめるものはつかめるだけつかもうとしたあの|根性《こんじょう》は認めよう』   そう、いつでも——�こんなときまで、彼は己《おのれ》の決めた道を行く。 「な、何か……つ、方法は……!?」   陽月が去れば、今この瞬間に影月の命は尽きる。こぼれた命の砂が戻ることはない。 「……僕が消えても、陽月が残ります」 「�わたくLが望んでいるのは陽月様ではございません!」   悲鳴のように|叫《さけ》んだ香鈴に、少しく目を畦《みは》ったあと、影月はそっと微笑んだ。    ー躊躇《ためら》わずに、そう言ってくれる人がいること。 『なんでだ? 州牧なのはお前であって、陽月じゃないだろL  ちゃんと影月《じぶん》を見てくれる人たちに、出会えたこと。   ……西華村を出てから、人は陽月の存在を知ると、大概面白《たいがいおもしろ》がって酒を呑《の》ませようとした。  陽月のほうがよっぽど頼りになるから、ずっと陽月でいたらどうだという人も多かった。   影月にとってそれらは、『早く死ね』と言われるも同然だったが、同時に仕方がないとも思っていた。事実、陽月のはうがすべてにおいて影月より立ち優《まさ》っていたからだ。  …かい憫っぷLや酒の強さ、性格、処世術錐けではない。その膨大《ぼうだい》な知識量の|一端《いったん》を、影月は時折…垣間見ることがあった。何一つとして及ぶものはなく、影月自身、心のどこかで彼の存在に頼/《虞》つている自分に気づいてもいた。   誰《だーl》かが陽月を求めれば、そのぶんだけ影月の命は縮む。誰かが影月の存在を否定したぷんだ《l》け、本当に命が尽きてゆく。欠けてゆく時間は、そのまま『杜《と》影月hが不要《いらない》と言われた時間。  限りある時を|精一杯《せいいっぱい》生きようとした影月にとって、それはあまりにも残酷《ぎんこ・1》な、命の契約《けいやく》。  けれど、貴陽《毒Jよ∴ノ》で秀麗にl出会って。  影月はもう一度、『影月《じバん》』を受け入れてくれる|優《やさ》しい人たちと、過ごすことができた。  たとえ悪ふざけででも、一度も陽月の存在を引き合いに出さなかった。お酒を飲まないようにいつだってかばってくれた。それは他ならぬ自分が必要なのだと、言われているようで。  彼らと過ごした、最後の優しい時間を、影月は忘れない。  影月の手が、少し躊躇い——ーそして香鈴の耳の下にそっとすべりこむ。  予感に、香鈴の黒目がちの瞳が《けとみ》大きく揺《♪》れた。  そ《ヽ》の《ヽ》言《ヽ》葉《ヽ》を、聞いたら、彼は去る。 「�いやです……つ!」                                                  「ノ.こ.  身をよじる香鈴を逃《J\乃》きぬように、影月は腕に力をこめた。  ……残りの時間を知ったとき、距《ヽ、ト り》離を置こうと思った。  自分は何もしてあげられない。  未来への優しい約束を、何一つ、大切な人の掌《てのひ・りl》にのせてあげることはできない。  この世から消えゆく男がその心を縛《しぼ》ることのないように、何一つ告げずに行こうと。  けれど、最後の最後で、その決意は|崩《くず》れた。 「いや……つ」  �どうか、覚えていてほしい。 「あなたが、好きです」  香鈴の青ざめた顔が、悲しみに歪《ゆが》む。  はらはらと頬《ほお》を伝う|大粒《おおつぶ》の涙が《なみだ》、影月の手の甲《こう》に当たって、くだける。 「……だから、僕のことは忘れて、幸せになってください」  覚えていてほしいと願いながら、日では逆のことを言う。  どこまでも利己的で、残酷で、身勝手な−。  最後の願い。  そっと唇が《くちげる》重なったとき、香鈴の眼差《まなぎ》しにはただ絶望と涙しかなかった。 「…う」  それでも何かを言おうとした香鈴の視界が、ぐらりと揺れる。  急速に遠のいていく意識の中で、最後に瞳に映ったのは、影月のー。  意識を失った香鈴を毛布でくるみ、彼女の室《へや》まで運んで|寝台《しんだい》に横たえる。  燕青《えんせい》はこれから州府に泊《と》まり込みになるだろう。けれど香鈴のことは春姫《しゅんさ》に文を出して頼《たの》んでおいたから、心配はない。  旅支度《たげじたく》はとうにすんでいた。  酉華村を出てからの長い旅路で、馬にも乗れるようになっていたのが幸いだった。  そして、 「杜影月』の旅はもうすぐ終わりを迎《むか》える。   東の日天《一てら》の果てで、かぎろいがはの白く揺れはじめる。 『ね、影月、幸せだね……h  いつだって笑っていたひと。   ただ自分の我値のためだけに、その命を無理やり繋ぎとめてしまったひと。   そして今また、大切な人の心を傷つけ、自分勝手な想《おも》いだけを置き去りに。 「はい、堂主様……」   影月は涙のかわりに、|笑顔《え C90がお》かべた。 「とてもとても幸せな、一生でした」   そして、最後の|瞬間《しゅんかん》まで『影月Lとして在るために、彼は手綱《たづな》を打った。         争藩本態・    −現在の黒《こノ\》州は、国でも一二を競《毒;て》う良治が敷《し》かれている地として名高い。   もともとこの地の豪族《ごうぞく》・黒家は、現在左羽林軍《きうりんぐん》大将軍黒煙世《こくようせい》の例を見るまでもなく、自《はく》家と並んで武芸千八事に長《た》けた武勇の|誉《ほま》れ高き|家柄《いえがら》である。窯州に林立する武術の門は数百を数え、                                                                                                                                                              まゝその道で名を成し、秘伝極意を求めんと黒州には多くの武芸者が流れこむ。名将軍を多々輩《�L▼−レ》出《しゅつ》する一方で、そこここに武芸者崩れの無頼漢《バらいかん》が閥歩《かつぽ》し、各地で山賊湖賊《きんぞくこぞく》がひっきりなしに涌《わ》いては旅人や村を|襲《おそ》い、街中で流血沙汰《ぎた》になるのが日常蒼飯事《さはんじ》という|物騒《ぶっそう》なところでもあった。  特に王位争いの余波を受けて食い扶持《バち》のなくなった武芸者が次々賊と化し、終結を見てからも、味をしめた彼らによって、異州は長らく混乱の中にあった。  その混乱を収束に導いたのが、数年前に就任した窯州州牧だった。次々と法令を発布して州府を建て直し、法と官吏《力人!?》の機能・権限を回復させ、男衆とその他《ほか》の名門武家の協力を仰《あお》いで賊を一掃《いつそう》し、手綱を引きしめるとともに治安回復に努め、力のない民《たみ》が守られる道を拓《ひら》いた。  侍に州府のある州都遠溝《えんゆ∴ノ》を|訪《おとず》れる人々は、平安と|穏《おだ》やかに流れる時の優しさを称《たた》える。  文に記されていた約束の時間通りに登城した秀麗は、宮城にて彼に割り・当てられている室を訪れた。窓辺にゆったりと仔《たたず》むその人を見つけたとき、胸が大きく|鼓動《こ どう》を打つのを感じた。  雷《しょう》太師に初めて会ったときのように、動怪《ごうさ》が速まる。  官吏をしていて、彼を知らない者などいない。  民の誰もが、彼の赴任《・ルい∵八》を望む。 「黒州の擢《一りし》州牧……でいらっしゃいますね」  掛《・h》り返った輝州牧は、脆拝《きはい》する秀麗を見つめ、しわくちゃな顔に優しい笑みを刻んだ。  現黒川州牧・擢瑞《かい時》は齢《よわい》八十を超《こ》え、現役官吏としては現在畢高齢《さいこうれ�、》を誇《はこ》る。  朝廷《ちょうてい》三師より遥《はる》かに高齢の身でありながら、いまだ頑《がん》として現役を退かず、なお嬰鉾《カ′〜しやく》として|敏腕《びんわん》をふるいつづける凄腕《すごうで》の老大官であり、かの霄太師・宋太博《そうたいふ》が官位に拘《カカよ》らず頭《こうペ》を垂れ、心  からの敬意を表する、数少ない一人である。  朝廷三師が中央にて先王を支えた重臣ならば、樺官吏は中央と地方を行き来するように飛び回り、国の安定に尽力《じんりよ′\》しっづけた名臣といえる。名誉《めいよ》官位の贈与《ぞうよ》を|拒否《きょひ 》しっ、づ豆ていなければ、とっくに朝廷三公の位についているはずの人物だった。  彼を惜《お》しみ、高齢のその身を案じた先王が、長年の擢官吏の《、ヽ、、》、再三にわたる茶州州牧就任要《、、、、、、、、、、、、、》請《ヽ》を棄却《ききやく》しっづけたことは有名な話だった。 『この老いぼれの首ひとつ惜しむとは重縁《もうろく》したか|小僧《こ ぞう》!』 『州城に着くまでにどうせポックリ逝くに決まってる。自己満足で死ぬより他の仕事してろ』  毎年毎年先王と擢官吏の間でそういった舌戦《ぜつせん》が繰《く》り広げられていたらしいと悠舜から聞いたときには、宋太博はりの強面《こわもて》を想像していたのだが−。 (……若いときは絶対ものすごい美男子だったに違《らが》いないわ……)   しわくちゃではあっても、まったく崩れたところはない。|微笑《ほほえ》むと涼《寸ず》やかに切れ上がった目《め》尻《じnソ》が少し下がり、それが何とも甘く魅力《みりょく》的である。落ち着いて品のある顔立ちは貴族的に整い、されいに撫《な》でつけられた銀髪《ぎんばつ》も、披《しわ》一つない官服の装《よそお》いも着こなしも一切手抜《いつさいてぬ》きがなく、歳《とし》を重ねたゆえの魅力を存分に引き出して|隙《すき》がない。特に|驚《おどろ》いたのが1。 「まさかこの歳になって、かように魅力的な才媛《さいえん》と同僚《ごうりょう》になり申すとは、嬉《うわ》しいことですね」  今なお少しかすれて艶《つや》のあるその声は、間違いなく若かりし頃《ころ》に耳元で囁《ささや》かれれば腰《こし》が砕《くだ》けていたに違いないほどの美声だった。しかもおじいちゃん言葉を使わないのでなおさらだ。 (あ、ありえないから……)  八十過ぎの殿方《とのがた》にドキドキしたのは生まれて初めてだった。 「まずは茶《さ》州での両州牧のお手並みに敬意を表させてください。話をうかがったときは、久万ぶりに若者のように興奮したものです」 「いいえ……とんでもありません。すべて、鄭州事と浪《ていしゅういんろう》州翠のお力添《らか・りぞ》えによるものです」 「誰《だれ》も、一人でなんでもできてしまうかたはおりませんよ。なんでもできたなら、私など先王陛下なぞ振り切ってとっくに茶州に馬を駆《か》っておりましたよ。ああ、こちらは黒州の特産、黒《くろ》芋羊嚢《いもようかん》です。どうぞお召《め》し上がりください」 「あ、お茶なら私が!」 「お呼び立て申したのは私のほうですよ。もとより女性のお手を煩《わず・り》わせるわけにはまいりません。さあ、どうぞお座りになって、おくつろぎください」にっこりと白い髭《ひげ》を撫でつけると、慣れた手つきでお茶を掩《し》れはじめてしまう。 (ま、まめまめしい……)  若い頃が偲《しの》ばれるような、付け入る隙もない色男ぶりである。多分藍《らん》将軍を凌《しの》ぐ。  芋羊糞と緑茶という|渋《しぶ》い選択肢《せんたくし》だけが年相応だったが、むしろ秀麗はホッとした。……もしかしなくてもそれさえ計算のうちだったらどうしよう。  沈黙《ちん一Yく》が落ちれば、本題が胸をしめつける。秀麗は気を落ち着けようと、ありがたく芋羊糞と緑茶に手を伸《の》ばした。   嫌《いや》な予感、というのは、どうしてこう当たるような気がしてしまうのだろう。   もくもくと黒芋羊糞を食べると、お芋の抑《おき》えた上品な甘みが口の中に広がった。 「……おいしい」 「それはようございました」   孫を見るような|優《やさ》しい微笑みに後押しきれて、秀麗は黒文字《ようじ》を懐紙《かいし》の士に戻《もご》した。 「……擢州牧、私のほうから、先にお訊《、」》きしたいことがあるんです」 「なんでしょう」   秀麗は、そろえた|膝《ひざ》の上で指を組んだ。 「……国試に及第《きゅうだい》したとき、影月くん、故郷に及第を知らせる文《ふみ》を出したんです。そのとき、返事はひと月もたたないで返ってきたんですけど−」  秀麗は、得体の知れない不安に動怪が高鳴るのを感じた。   そうーずっと、香鈴に対する態度を見た時からぬぐえなかった不安。 「このあいだ、影月くん、黄陽から西華村まで最速の文を出しても、何ヶ月もかかるって言ったんです。だとすると、計算が合いません。でも、私も文を見せてもらいましたけど、ちゃんと状元及第の特別禄《ろく》のことが書いてあって——|些細《さ さい》なことなんですけれど……もし、何かご存じのことがあれば教えていただきたいんです」                             ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ  影月は、どこかで嘘をついている。   そしてそのたった一つのほころびこそが、すべてを崩《くヂ》す�そんな気がした。 「……貨陽から、黒州州都までなら、ひと月かかりません。その文の相手は、私です」  擢州牧の落ち着いた告白に、秀麗は驚いた。 「えーだって、故郷に、つて……」 「西華村は、もうありません。数年前に、二人をのぞいて、ある奇病《きげよう》で全滅《ぜんめつ》したのです……」  秀麗の目が、予想もしない言葉に、いっぱいに見ひらかれる。 「……西華村は、千里山脈の麓《ふもと》にある閉《と》ざされた小さな小さな村です。杜州牧が州試のためにたった一人で州都遠済《えん�う》においでになるまで……それも、州試首席及第者としてお会いするそのときまで、情けなくも私はその事実をまったく知らずにいたのです……」曜州牧は、無力を悔《く》やむようにきつく瞑目《め∴∵もく》した。  そのときの影月の表情を今でも覚えている。浮かべた穏やかな微笑みは、十二歳の少年のものではなかった。  樺州牧が即座《そくぎ》に派遣《はけん》した調査隊が見たものは、丁寧《ていねい》に一つ一つつくられた墓だけだった。  死んでゆく村の人間のために、十歳の彼が、たった一人でつくった墓標。 「杜州牧は、私に一通の文を差し出しました」  差出人は西華村水鏡遺寺の堂主。影月の後見役をつとめるというその名を見たとき、樺州牧は心底驚いた。まさか、『彼』がこんなところにいたとは�——。  文には、西華村を|襲《おそ》った悲劇とともに、これから自分のかわりに杜影月の後見代理になってはしいという一文で結ばれていた。 「……するべきことができました。私もこれから旅に出ます。この文をあなたがご覧になる頃には、私もまた西華村にはいないでしょう。連絡《れんらく》の取れなくなる私のかわりに、どうか杜影月の後見をお願いしたく存じます。この子を、よろしくお願いいたします�』  木簡の裏書きは水鏡遺寺のままにして、擢州牧は何も訊かずに後見代理を引き受けた。  擢州牧は彼を自分の邸に迎《やしきむか》え入れ、翌年冬の最終試験に出立するまで共に過ごした。後見を引き受けた少年は、異州州試を首席及第したあとも、他の及第者のように浮《ーフ》かれることなく朝から晩までひたすらに机案《つくえ》に向かっていた。いつ眠《ねむ》っているのか見当もつかず、心配のあまり擢州牧はよく無理やり床《レしこ》につかせたものだ。   国試に状元及第したと聞いたとき、擢州牧だけは驚かなかった。   彼は天才ではない。もし才に恵《めぐ》まれているとしたら、それは努力という名の才だった。   責陽に出立する目、路銀を渡《わた》そうとすると 「大切なお金があるから」と告げて、礼の言葉と共に、深々と頭を下げた。 「状元及第者に贈《お′\》られる特別俸禄《はうろく》の銀八十両は一前礼部尚書によって届きませんでしたがJH 《.》ー西華村ではなく、私宛《あて》だったのですよ。俸禄が届いているか否《いな》かの確認《かくにん》と|一緒《いっしょ》に『長い間、ハぉ邸でお世話になったお礼です』と添《●て》えられておりました。『心配してくださるかたがいるの〆で、一度だけ、嘘をお願いしてもいいですか?』とも」U  どうして、と秀麗は訊《たず》ねることができなかった。   《 》故郷に、お金は送ったけれど『及第の報告は頭になくて』出さなかったと言った影月。無理  やり『故郷への文』を書かせたのは、秀麗だった。  血縁《けつえん》でもない窯州州牧に宛《あ》てたと言えば、『なぜ』と訊かれるに決まっている。  言えるはずがない。故郷には、もう誰もいなくなってしまったなんて。  言える、はずがない——ー。 「……私があなたをお呼び立て申したのは、お渡《わた》ししたいものがあったからなのです」  擢州牧は立ちあがると、棚《たな》から数十冊の巻書を抱《カカ》えて、草子に戻ってきた。 「これは……?」 「私が朝質に参る前に、あるかたからお預かりしたものです」  窯州州府遠溝城まで樺州牧を訪ねてきた彼は、纏《まと》ったポロポロの衣服とは裏腹に、その畔《ひとみ》にはあふれるほどの知性と日だまりのような|穏《おだ》やかさをたたえていた。  にっこりと|微笑《ほほえ》むその笑顔は、見ているほうまで幸せになれそうなほど優しく。 『今まで、私のかわりに影月の後見をつとめてくださって、本当にありがとうございました』  私《ヽ》の《ヽ》旅《ヽ》ほ《ヽ》終《ヽ》わ《ヽ》り《ヽ》ま《ヽ》し《ヽ》た《ヽ》ーと、彼は静かに告げた。 『影月と、約束していたことがあるんです。間に合って、良かった……』  そして重たげに背負っていた布袋《ぬのぶくろ》から、この巻書をとりだしたのだ。  秀麗は巻書のひとつをひもとき、ざっと目を通して、驚樗《さようがく》した。 「……医学書……!?」  手書きで、びっしりと文字が連なったその巻書は、秀犀には理解できない|特殊《とくしゅ》な用語がいく  つも並んではいたが、間違いなく、医書だった。   数十の巻書にもう一度目をやる。まさか−。 「これ、全部……!?」 「あなたにお渡ししてほしいと、そのかたほおっしゃいました」 「ちょ……つ、待ってください。お医者様……つていうことは、そのかたは影月くんを育ててくださった、水鏡遺寺の草王様のことですよね〜どうしてこれを影月くんじゃなくて、私に預けていかれるんですか……!?」  嫌な予感に、胸がざわめく。   朝賀にきたのが、たまたま秀麗だったからというわけではない。擢州牧ははっきりと『あなたに』と言ったのだ。   樺州牧の顔が、陰鬱《いんうつ》に曇《くも》る。 「……そのかたから告げられた言葉を、そのままお伝えしましょう。私にも、それがどういった意味なのか……何かの比喩《ひゆ》なのかもわからないでいるのですが……」…掛の優しい微笑みは、そのままどこかへ消えてしまいそうな撃があった。  ‥『いきなり茶州の州牧になってしまって、さすがに|驚《おどろ》きました。でも陛下が州牧を二人にして′くださったことを聞いて……天運のようなものを感じました』  聞きたくないと、秀麗はそう思った。   《l》心のどこかで感じていた、影月に関する不安の正体を、擢州牧の言葉はきっと|貫《つらぬ》く。   一なぜ、十二の若さで急ぐように国試を受けたのか。 「影月も、も《ヽ》う《ヽ》さ《ヽ》ほ《ヽ》ど《ヽ》猶《ヽ》予《ヽ》は《ヽ》残《ヽ》っ《ヽ》て《ヽ》い《ヽ》な《ヽ》い《ヽ》で《ヽ》し《ヽ》ょ《ヽ》う《ヽ》……。ですから、影月ではなく、影月と私の想《おも》いを受け継《つ》いでくださるはずの、もう一人の州牧に、この巻書を託《たく》します』き人生は短いですから、なるべく早くと思って同講を受けたんですと、笑った影月。『いつまでその時間があるかなんて、誰《だれ》にもわからないんですh秀魔の心が、ひんやりと|凍《こお》りついていく。裏腹に、|握《にぎ》りしめた掌《ての.け一・り》には|汗《あせ》がにじみでる。 (聞きたくない)  時は金なり、と�告げた、その二言葉の本当の意味を。 『国試からすっと一緒という、もう一人の州牧に、どうか伝えてください。あの子が西華村を出て、またひとりばっちになってしまうことだけが心配だったのですけれど、ポッとしました。  影月を一人にしないでくださったことに、心から感謝いたします。そして−』  背中を、嫌な汗が伝い落ちる。抑えようとしても体が震《ふる》えた。  少しずつ、少しずつ、生き急いでいるように見えた。思えば優しすぎるほど優しい影月が、                                 ト{・9−ノ  香鈴を受け入れる心の余裕《ー.——》がないなんてあるわけがなかった。本当に余裕がないのはー。  擢州牧の声からは艶《つや》が失われ、ちぎれた真珠《しんじゆ》の首飾《ノ、げかぎ》りのように、床に散らばる。 「……そう遠くないうちに、杜影月がこの世から消えてしまうことを、と」  秀麗の周りから、|一切《いっさい》の音が、消える。   どうしてかはわからない。                                           ともしげ   J   けれど確かに、影月は自分の命の灯火が《′》尽きることを、知っていたのだ。   そしてなおも運命の車輪は廻《めへ、》りつづける。    「お話中、失礼いたします!」   ハタハタと駆《か》け込んできた下更が、秀麗に二通の文を手渡《てわた》した。    「一適は影月くん——え、もう一連は燕青っ・」   なぜ同じ場所にいる二人から別々に文が届くのか。   影月のほうは全商連経由の最速便−燕青のほうはと裏返して色を変える。   擢州牧も、その印を見て目を剥《む》いた。   封脱《ふ・.1;∵つ》に使われているのは非常事態を告げる真紅《し人・、》の州封印。これが捺《お》されていれば、すべての関寒《カ�れさい》を無条件で通過でき、かつ各郡でただちにR型尚の騎手《さし博》と最速の駿馬《し時んめ》が手配され、乗りつぶして目的地まで駆け抜《ね》けることを許される、|緊急《きんきゅう》時にしか使えぬ最速の伝達手段。   全商連の最速便も唯一敵《時いいつかな》わぬ、最後の手段でもある。  朋  破るように二通をひらき、それぞれに目を通した秀麗は|蒼白《そうはく》になった。  刷虎林郡の病のことも、単身そこに向かったという影月のことも就眠輿のこともlそのm教祖である〒夜』の名にも、その動向にも。  《せんや》  記してあるすべてに、もう、何から驚いていいのかもわからない。   《.1》なぜこうも、すべてが一度に動き出すのだろう。   特に1『千夜』。   ゆるやかな巻き毛を揺《ゆ》らし、猫《ねこ》のように笑みを刻む『彼』の姿が|脳裏《のうり 》に閃《ひ・rjめ》く。   秀麗は小刻みに震える手を拳に握りしめ、余計な考えを払うように頭を振《ふ》った。 (——�決、断を) 「……擢州牧、医薬を|司《つかさど》る部署ほ、確か−」 「殿《でん》中省、太子府、後宮、軍などに配置されていますが、もっとも重要なのは工部管轄《かんかつ》の太常寺大医署です。現在、長官である陶《とう》老師が筆頭侍医と兼任《けんに人》しているくらいですから」 「工部ーでは管尚書、ですね……」秀麗は|椅子《いす》を蹴立《け一.た》てるようにして立ちあがった。 「−この二通の写しを主上へ。同時に鄭州努を即刻《そつこく》呼んでください。また、大至急管工部尚書に、茶州州牧紅秀麗の即時《そくけし》目通りと、工部所属の医官−筆頭侍医陶老師をはじめとする、最高医官の招集要請を伝えてください」  秀麗の厳しい言葉に打たれるように、控《ひか》えていた下更が踵《カカと》を打ちつけて直立した。 「か、かしこまりました!」   下更が飛ぶように出ていくのと同時に、秀麗は擢州牧がもってきた医学書を振り返った。 『天運のようなものを感じました』   これこそが、きっと、天の采配《さいはい》。 (このなかに、きっと、あ《ヽ》る《ヽ》ー!) 「擢州牧、これを届けてくだきって、心から感謝します」 「——私に、何かできることはありますか? L 「……我値《わがまま》を言ってもよろしければ」   まるですべてを|覚悟《かくご 》したかのように、秀麗ほ笑った。 「この件が終わって、私が州牧を更迭《こうてつ》されたなら、次の茶州州牧になってくださいますか?」  若き姫《ひめ》州牧が、|冗談《じょうだん》を言っているのではないことはすぐに知れた。   繹州牧は、奴《しわ》さえ魅力《みりょく》的に寄せると、|優《やさ》しく微笑んだ。 「……私の力が必要と仰《おつしゃ》いますか〜」 「はい。一筆轟いていただきたいくらいに」 「では、書きましょう」   擢州牧は手早く料紙と筆を用意すると、サラサラと美筆をすべらせる。 「あなたと杜州牧が、今から州牧位をかけて守ろうとするものを、今度は私が引き継ぎましょう。六十も年下の若造…陛下に文句など言わせません。男の頼《たの》みは多々断って参りましたが、ノ女性とのお約束は一度も破ったことはありませんので、どうぞご安心くださいませ」∵摘得鱒紬轟瑠《げれい》文机雛鏑質摘貴賎紺鵠醤冊詳時間ができたら、 ぜひ今度こそゆっくりお茶をご|一緒《いっしょ》させてください。では、失礼させていただきますね」  《l》そして、医書を詰《つ》めこんだ箱を抱《かか》えて、矢のように少女が飛びだしていく。  樺州牧の心に熱く火が灯《←一も》る。  戦乱の世を、先王は号もに駆け抜けた遥《はろ》かなる昔が蘇《よみがえ》る。  ゆこれだからこそ、官吏はやめられない。同を動かす、若者たちの強く揺るぎない意思を感じるたびに、何度でも心踊《おピ》り、若返る。負けてなどいられない。 「ふ…女性にお茶に|誘《さそ》われてしまったら、何があってもポックリ逝《軸》くわけには参りませんね」もったいなさすぎて、老いてなどいられない。  この国の未来を瞳《いとふ》に映す特権を、まだまだ後進には譲《時ず》れない。  −1−そして再び、時は風雲急を告げるl。                                                            ・lご具l                                                                                                    Vh  く  《lふ蒜�》 「影月あんの云カたれー!」  琉埴《こわ人》城で次々と届く報吾に指示を飛ばしながら、燕苦はそう|叫《さけ》ばずにはいられなかった。 「いくら著才が帰ってきたっつっても、このクソ忙《1.そが》しい時期に一人ですっ飛んでくヤツがあるかー! 行くにしても俺に言ってから行けっつーの!」責任感の強い影月が、まさか何も言わずに石柴村に飛んでいくとほ思いもしなかった。 「おお、そりゃ行くっつっても止めたけどさ! ちくしょーそうかだからか!」   ーしかも、州牧印とともに燕青に全権を預ける旨《むね》の書状を置いて。 「だう! これじゃ今度は俺が境埴城から離《はな》れられなくなっちまったじゃねーか!」  秀麗も悠舜もいない今、茶州の全権はすべて燕青の両肩にかかった。これではさすがの燕青も城埴城から動けない。燕青がやろうとしていたことを影月に先にやられてしまったのだ。 「お師匠《ししょう》もまたどっか武者|修行《しゅぎょう》にいっちまったし、香鈴嬢《じょう》ちゃんもなんもいわねーし」 「やかましいですよ浪州努!」  柴彰が《さいしょう》投げつけてきた巻書を、燕青が間一髪《かんいつほろ》で受けとめる。   いつも瓢々《ひよう!?よう》とつかめない彼が、|珍《めずら》しく苛立《い・りだ》ちを露わにしていた。 「薬も医師も全然足りません。とっととそれに印を捺《お》してください! こうなったら責陽全商連に掛《力》け合います。勿論《もちろん》全部公費で落としてもらいます。あとで中央に大借金の言い訳をよく考えておくことですね!」 「よし! l『ひ孫の代までツケさせる!』」 「却下《きやつか》! そんなんじゃびた一文引き出せませんよッ」  それでも柴彰は印を捺された書状をもって即座《そくざ》に室《へや》を出て行った。   −影月の予見は見事に的中した。  石集村はごく少数をのぞいて、次々と|倒《たお》れていった。百人近くいた村人のうち、すでに半数が死亡した。それと前後するように、通達を出した各郡太守を通じて、千里《せん!?》山脈に接する村や街から続々と|症状《しょうじょう》を同じくする 「奇病《きぴよう》』報告が上がってきた。  燕青も十年州牧をやっていたが、こんなことは初めてだった。  しかしどうやら、千里山脈に接する村々では苦から数十年に一度、こういった病は起こっていたらしい。原因不明の不治の奇病として、村人たちはただ天命と恐《おそ》れおののくしかなかった。  閉《と》ざされた生活を送る各村は、上に報告することなど思いも及《およ》ばず、ただ祈《いの》り、息をひそめて春とともに『病』が収束するのを待つのが常だったのだという。  春になれば病魔《ぴようま》は去るという、ある村の老婆《ろうぼ》の言葉があった。  バ……数十年に一度、いつもより早い冬がきたとき、水から魔物があがってくる……h似たような話は、確かに千里山脈に接する他《はか》の村でも見受けられた。  それを裏付けるように、病は冬の|訪《おとず》れの早いところから順繰《じゅんぐ》りに広がっている。  かき集めた医師たちも、大半が『魔物』を怖《おそ》れて虎林郡へ行くことを|拒否《きょひ 》した。  広がりを見せる病に、用意した薬もまるで足りなかった。もとより症状を緩和《かんわ》するだけで、完治薬ではないことも絶望的だった。それでも知った以上、何もしないでいられるわけがない。  さらに、事態をいっそう深刻化している別の要因があった。  影月の出立と入れ違うように上がってきたその報告を聞いたなら、おそらくは影月も出立を見合わせて州城に留《とご》まったに違いなかった。 「こんちくしょう! とっとと山狩《やまが》りでもなんでもして全員しょっぴいときゃよかったぜ!!」  もし境埴城を出ることができたなら、今すぐ虎林郡に飛んでいって、�邪仙教″とかいうわけわからん集団を片《かた》っ端《ばし》からとっつかまえて梶《こん》で叩《たた》きのめして、カンカン踊りをさせたあげくに一人残らず山に埋《すつ》めてやるのに。 「くそったれ。ノコノコ出てきやがって……!」   意味不明な仙人《せんに人》の説法しかしていなかった�邪仙教″は、病の広がりとともにもっともらしく山から降りてきて、自分たちの仲間に入れば病にかからないと言い始めたのである。 『いらっしゃればおわかりになると思いますが、我々の中には誰《だれ》一人として発病した者はおりません』  虎林郡丙《へい》太守のいち早い通達もむなしく、不安と|恐怖《きょうふ》におののく多くの村人たちがその言葉を信じ、続々と 「入信』しているという。  そればかりか�邪仙教″はこんなことまで言いふらし始めたのだ。 『この病は天がお怒《もカ》りになっているのです。神聖なる政事《まつりごと》に、あろうことか女人《によにん》が関《カカ》わったことに、かつて蒼玄《そうげん》王とともに国造りを行った彩八仙《せん》がお怒りになられたのです。一刻も早く、例の女州牧をひっとらえ、生贄《いけにえ》に|捧《ささ》げて許しを請《こ》わぬ限り、この病は収まらないでしょう』  燕青から見れば 「くだらねぇデタラメ言ってんじゃねぇふざけんなバカタレ」と棍で殴《なぐ》って終わりの話だったが、いかんせん原因不明の死の病に直面している人々に、そんな冷静な判断ができるわけもない。もとより地方に行けば行くほど正確な情報を入手しにくく、目の前の現実のみがすべてになりやすい。それらは流言飛語が浸透《しんとう》しやすい条件となる。秀麗が赴任《バにん》して最初の冬の出来事ということもあって、その一llてお告げ』は非常な説得力を持ってどんどん広がっているという。秀虜に対する不審《ふしん》と反発ととも隼−1。   茶州全土ではなく、千里山脈に接する村々でしか発病しないことを考えれば、秀麗と病との  間になんの関係もないことは明白だ。けれど目の前の事実のみを信じる人々にとっては、確固たる病の|治療《ちりょう》法を見つけない限り、その流言は時を追うごとに『真実』になっていく。生勢などと言っている以上、万一の場合、解任で済む問題でもなくなるのは日に見えている。 「かう、余計事態をややこしくしやがって!」  |緊急《きんきゅう》事態と判断し、現状の仔細《しさい》を記して真紅の紆蝿《・ごブろ∴ノ》で章陽へ文《ふみ》を飛ばした。戦場の急使にも匹敵《けlつてき》するあの最高速の伝達手段は、全商連にも優《圭さ》る。影月が全商連の最速便で先に送った文と相前後しての到着《とうらや! 、》となるだろう。  帰ってくれは、秀魔の身が危ない。  判断は秀麗と悠舜に任せる。  選んでほしい道はある。  けれど、官吏になって一年にも満たぬ彼女には酷《こく》な道だともわかっている。 (でもさー)  上に行きたいと言った、秀麗の眼差《まなぎ》しを思いだす。  ……選んでほしいと、燕背は思った。  他の誰《だれ》でもない、秀鹿だからこそ、その道を行くのを見てみたかった。  首を振ると、�邪仙教″に関する報告を|一瞥《いちべつ》する。 「�邪仙教″教祖、『千夜』、か……」  燕青も秀席から聞いていた茶朔泡の詐称《さくじ座んきしょう》名を、この時までには思いだしていた。   さ消えた朔泡の遺体。符号《・hごう》は一致《いつち》するように見える。   それでも、|奇妙《きみょう》な違和《いわ》感がぬぐえない。 「……朔なら『実は生きてまーすLって出てきても|驚《おどろ》かねーけど……。あいつ、こーゆーおバカなヤツらの裏の裏の斜《なな》め向こうで逆立ちで|浮遊《ふ ゆう》してるこたあっても、『教祖』とかいって名前出す性格じゃわーよな……。朔って遠くからバカ見るのほ好きだけど、バカやるのもなるのも近づくのも嫌《きら》いだもんな。お山で猿《さろ》軍団の大将張るよりや、はぐれ猿気取って一匹《ぴき》で日がなぐーたらして、たまに猿軍団引っかき回してほくそ笑《え》む不良猿っつーかさ」�殺刃賊《さつ!?レんぞく》″の一件がいい例だ。茶無軸《えんじゅん》にさえ、最後の最後まで尻尾《しつば》を掴《つか》ませなかった。   とはいえ、今この時期、騙《かた》った名が偶然一緒《ぐうぜんいlrJしょ》というのもできすぎている。 「……何より、朔が今さら姫《ひめ》さん相手にこんなヤラシイ手打ってくるか……?」   きな臭《く・さ》い|匂《にお》いがする。それは燕青独特の、直感というべきものだったけれど。 「……なんか、まだめくってねー札があるって感じだな……」   この一件の裏に、何かが裁《うごめ》いているような気がして、燕青は目を細めた。         瀞尊命嗜癖   秀麗のもとへ二通の書翰《しよかん》が届く、少し前−。 「標家《ひようけ》のー当主が秀麗と|接触《せっしょく》した可能性がある?」  楸瑛《しゅうえい》の報告に、劉輝《りゆうき》は|執務《しつむ》をする手を止めて妙な顔をした。 「……なんで秀麗なのだ?」 「……さあ」  つられてうっかり|緊張《きんちょう》感のない返事をした楸瑛は、後ろから注がれる静蘭《せい・りん》の氷柱《つらら》のような視線を受けて、コホンと|咳払《せきばら》いした。……一応、自分が士官なのだが。 「……念のため、兵を少数動かして、責陽で標家にゆかりのある邸や道寺《やしきてら》などを内密に調べてみましたが、今のところ|滞在《たいざい》の形跡《けいせき》はどこにもありませんね」 「秀麗が城で会ったというのなら、城のどこかにこっそり居候《いそうろう》してるのではないか」静蘭は弟の|呑気《のんき 》さに額を押さえた。 「……主上、もう少し危機感をもってください」 「う、はい……。標家か……」  蒼玄王の時代から七家とともに脈々と続いてきた名家。多く神事を司《つかきご》り、異能の力を持つがゆえに、よく民衆の心をつかみ、過去幾度《しくと》も政事の表舞台《おもてぶたい》に姿を現した。  王家に従い、良治の|一端《いったん》を担《にな》う時代もあれば、愚昧《ぐまl 》な土を陰《かげ》から操《あやつ》り、政権を掌握《しようあく》する時代もあった。先王が生まれた暗黒の大業年間が後者、標家暗躍《あんやく》の時代だったことは、朝廷《らょうてい》でもほんの一握《ひとにぎ》りの者しか知らぬ事実である。  茶太保《たいは》でさえ標英姫《えいき》を標家から『裡《き・り》わなければ』結婚《けっこん》できなかった。若き朝廷三師らをもってしても、平定に数十年を要した。表向きは先王の勝利と言えようが、決して表舞台に立たな  かったことで、正面切っての処罰《しよばつ》はほとんどできなかったとも聞いている。 「−危険です」  静蘭は厳しい表情のまま、低く|呟《つぶや》いた。 「まったく、何を考えているのかさっぱりわかりませんが、あの標家の当主が直々に責陽にきたんですよ。密偵《みつてい》を飛ばして捜《さが》させ、逐次《らくじ》様子を報告させるべきだと思います」 「いやでも本当に何しにきたのだ? 当主自ら来ていて、余はかなり無視されてる気がする」 「そ・れ・を、調べるために密偵を飛ばしてくださいと申し上げてるんです」にっこりと|微笑《ほほえ》むその顔が怖《こわ》い。劉輝は思わず小さく首を疎《すく》めた。 (……まあ、静蘭が気を張るのもわからなくほないが……) 「……今の細作に見つけられるかどうか……。父の時代でさえ、彼らと互角に渡《ごカくわた》り合ったのはかの�風の狼″《おおカ、み》たちだけと聞いている。それでも相当の|犠牲《ぎ せい》を払《はら》ったというが……楸瑛?」 「……難しいですね。標家が政事の表舞台から姿を消し、沈黙《ち人もく》を守ってから数十年……現在、彼らの情報はほとんどつかめていません。やるだけはやってみますが−」ふ、と静蘭の唇《ノ、らげる》から皮肉げな微笑がこぼれた。 「沈黙を守ってから数千年……ですか7本当にそうだと? 藍将軍」  楸瑛ほ表情を消すと、静蘭を真っ向から見据《7.‥寸》えた。 「……出過ぎるな。身分をわきまえろ、庇《し》静蘭」 「……失礼いたしました」 「こら、こら、喧嘩《けんか》をしてはいかん」   劉輝は机案《つくえ》の引き出しから何やら小さな壺《つぼ》をとりだした。 「二人ともこっちを向くのだ」   二人が振り返った瞬間、《しゅんかん》口にぽいぽいと何かが放《ほう》りこまれた。          いっぱく    −一拍。 「くく〜当月つつつつ。‥」   葺じ        まおご   二人の美貌の青年はそれぞれ高すぎる衿持によって、かろうじて悲劇の舞いを踊り出す失態は回避《かい!?》した。それでもさすがに|双方《そうほう》とも口をおさえて涙目《なみだめ》になった。  劉輝も自分で一つほおばり、きゅうっと『すごーく隙《−——》っはい顔』をした。 「この梅干しの品種名は『超《ちょう》仲直り梅干し』だそうだ。喧嘩した恋人《こいぴと》たちに大人気商品だと宵大師がもってきた。頭も良くなるらしい。くそ、余が|馬鹿《ばか》で秀麗を怒《おこ》らせると決めてかかってあのくそじじい……。まあ食べた以上、頭が良くなったはずだから喧嘩はできぬぞ」  また|騙《だま》されている、と二人は思った。  . 「まあ、標家の当、王もちょっと気が向いて観光がてら貴陽まで足を運んだだけかもしれないが」ハ 「…………」′ 「…………」− 「せっかくきたのだから、余も会えるなら会って、新年の抱身《ほうーh》など聞くのもいいと思う。無駄《むだ》《 》でも良いから一応捜索《†て.りと.7\》を。他《ヽ》に《ヽ》ど《ヽ》こ《ヽ》か《ヽ》か《ヽ》ら《ヽ》情《ヽ》報《ヽ》が《ヽ》入《ヽ》っ《ヽ》た《ヽ》ら《ヽ》、知らせてくれ。楸瑛」 「……ほい」 「選ぶ必要はない。お前は、お前が大事に思うものを、いちばん先に考えて守ればよい」 「  −  1−」  落ち着いた声音《こわね》に、楸瑛lは表情を変えないようにするのが|精一杯《せいいっぱい》だった。 「……御意《ぎよい》」   ただそれだけを告げると、轍嘆は退出した。  静蘭はちらりと上官に視線を送ったあと、あとに残って劉輝に向き直った。 「あなたは甘い」 「……それではダメか?」 「藍将軍はあなたの�花″を受けたんですよ? L劉輝は肯《うなず》いた。それでもいいのだ。知った上で、�花″を与《あた》えたのは自分だ。静蘭は|溜息《ためいき》をついた。その答えを即答《そくとう》できる弟が、嬉《うれ》しくも誇《ほこ》らしくもあるのだが。 「仕方ありません。周りが気をつけていればいいことですからね。お望みの道を行かれませ」 「その、静蘭……あまり楸瑛をいじめてはいかん」  静蘭はにっこりと笑って、答えずに退出の礼をとる。  残った劉輝は溜息をつきながらもうひとつ梅干しを食べて、酸っぱい顔をした。  閏闇は幽『彼女』を見た王直属の筆頭侍医《じい》・陶《とう》老師は|仰天《ぎょうてん》した。 「あ…なたが、紅《こ・リ》州牧ですと……!?」   秀麗《しやつれい》は思わずスッ飛んでって陶老師を|扉《とびら》の外に引きずりだした。 「しーっ、しーっ、あのコトはどうか内緒《ないしょ》に!」   秀麗が後宮入りしていたとき、賊《ぞく》に攫われ、仙洞宮《せんとうきゅう》に閉じこめられたことがあった。そのとき妙な薬を境《か》がされたか飲まされたかしたらしく、一時は生死の境をさまよった。静蘭《せいらん》もどこぞで怪我《けが》を負って重症《じゅうしょう》で、そのとき二人に手を《つ》尽くしてくれたのが陶老師だった。   つまりは、陶老師は秀麗が『貴妃《きひ》』だったことを知る数少ない人物なのである。  !? 「|誓《ちか》って不正及第《きゅうだい》はしてません!」  は 「鴻鵠《ささや》�結H誹糟鴇最《もど》高摘瑠鰻《くしょう》最《う》錮鐙!?くなかったはず−ですからな」  《一》陶老師は何かを思いだすように瞑目《めいもく》した。 「……あなたがお|倒《たお》れになったときの主上のご様子は、今でもよく覚えております。平生、決して声を荒《あら》げることなどない主上の、あれほど取り乱されたお姿を見たのは、今も昔も、あのとききりでございます」  この世でいちばん大切なものが掌《ての!?・り》をすり抜《ぬ》けていくときの絶望を、陶老師は垣間《カしま》見た。 「……いくな……つ』                                                     ..−   あのときの、心が砕《くJl》け散るような声を、今でも陶老師は忘れられない。   助けられないことを詰《左し》り、責め、心に任せて怒鳴《∵−た》り散らしたことを、責妃が助かったあとに恥《_�》ずかしそうに謝りにきた土。             ニー�し   誰《◆Jl’ら》よりもこのかたは紅貫妃を愛しておられると、わかったからこそ、賞妃が後宮を退いたと聞いたときは耳を疑ったものだ。   あのときから、王はまたひとりばっちになってしまった。 「後宮に、お戻りになられるお気持ちはございませんか……?」   時折、誰かの姿を捜《さが》すように、ふっと遠くに視線を彷捏《さよよ》わせるのを、陶老師は知っている。   まるで、|伴侶《はんりょ》をもがれた比翼《けよく》の鳥のようなその姿が、あまりにも痛々しく、|寂《さび》しそうで。   思わずこぼしてしまってから、陶老師はハッと目許《/1トり一じしlu》を押さえた。 「申し訳ございません……。差し出た日をはさみました」 「……いいえ」   秀麗は意識して、深く息を吸った。    「……今の私は、茶《さ》州の州牧です。そのおつもりで、どうかお話を聞いてください」         ㈴帝㈳聴�   工部尚書室《しぶうしlよしつ》には、秀麗と悠舜《ゆうしゅん》の他に、管《かん》尚書と欧陽侍郎《おうまうじろう》、筆頭侍医陶老師を始めとする医官たちが大至急集められた。   そして、秀麗が話した茶州の事態に、全員色を変えた。    「マジかよ……」   さすがの管尚書もそれきり絶句し、欧暢侍即も目を細めた。   悠舜も自分が不在の間に起きた出来事に、青ざめて厳しい表情を崩《くず》せなかった。   陶老師は筆頭侍医として、影月《えいげつ》から細かに報告された病状に険しい顔をした。    「……上腹部がふくれ、肌《はだ》が黄色くなる……話には聞いたことがございます。確か、山間部に時々広がる病にそういった症状が《しよ・ブじよう》あったはず……」J  重い声音は、|治療《ちりょう》法までは知らないことの証《あかし》でもあった。  一バ《 「》陶老師以外に集まった若手医官たち鴻同様に顔を曇《くも》らせる。↑  《/》ただ秀麗だけが落胆《らくたん》の色を見せず、擢《 りも》州牧のもとから運んできた箱を卓子の上に置いた。  〕 「−実は、あるかたからこれらの巻書を預かりました」   秀麗は次々と箱から巻書を出していった。  陶老師もその一つを何気なく手にとった。ばらりと開いて日を通t−酔目《ごうもく》するまでいくらもなかった。次いで秀麗に負けじと、猛然《もうぜん》と積み上がる巻書を片《かた》っ端《ばし》から開いていく。   いつも冷静な陶老師の思わぬ姿に、弟子《でし》たちは|驚《おどろ》いた。 「と、陶老師〜」 「お前たちも見てみなさい……!」   |叫《さけ》ぶような命令に目を白黒させながら、若手医官たちもそれぞれ巻書を手にとった。  =つ三拍《は・\》のちには、全員から驚愕の岬《さようがくうめ》きが上がった。 「嘘でしょう……!?」 「こ、これほどの医学書……こんな調合法があるなんて……!?」   陶老師はわなわなと巷書をもつ手が震《ふる》えた。 「すばらしい……つ!!」   数十を数える巻書には、およそ国中で難病奇病《きぴよう》と言われ、治療法どころか原因さえ解明されていなかった数多くの病の治療法が事細かに記されてあった。薬学に関してまとめられた巻書には、陶老師の知らぬ数多《あまた》の薬草と新薬の調合法及《およ》びその効能が記載《きさい》され、それらの膨大《ぼうだい》な新事実は既存《きそん》の薬学を根底から覆《くつがえ》すほどの|衝撃《しょうげき》だった。 「こ、この書き手は……!?」   陶老師があちこちひっくり返して著者名をさがしー小さく隅《すみ》に記された名に驚愕した。 「華眞《かしん》……!?まさか、あの華眞か!?」   その名に、若い医官たちが弾かれるように師匠を蔽り仰いだ。 「華眞って……もしかして、あの伝説の神医・華姉《かだ》老師を輩出《はし.しゅ 「l》した華《か》一族の!?」 「医仙の寵旧ル《いとしご》って渾名《あだな》されたっていう、神童・華眞ですか!?」   飛び出てくる双《ふた》つ名に、さすがの秀麗も巻書をとりだす手を一時止めたほどだった。   しかし、医官たちのほうが混乱は大きかった。 「え、だって、確か、先王陛下の侍医になるのを|拒否《きょひ 》して、紅藍《二う・りん》両家から破格の待遇《たいぐう》の申し出もことごとく蹴《†.》って、いつのまにかどこかに消えたって……」  陶老師はかつて出会った少年を思いだす。   何百年も前、彩《さい》八仙に弟子入りして数々の医術を学んだという伝説の神医・華郷老師の血を引く医師一族。多く医学に長《た》けた者が輩出される中で、華眞は十代で華家に伝わるすべての医術を継承《けいしょう》した神童としてその名を馳《は》せた。   どこまでも志高く、心|優《やさ》しかった彼は、大家のみに仕えることを拒否し、姿を消した。  『命に貴賎《させん》はありますか? LJ  是《ぜ》であれ杏であれ、彼は|微笑《ほほえ》んで同じ言葉を返した。  ハ《l》『伸《の》べられた手の主が誰であっても、私のすることに何一つ変わりはありません』   《/》あまねく世にしろしめす英主でも、身寄りのない赤子でも。  一同じ『一人』の命を救うために、ただ全霊《ぜんれい》を賭《か》ける。  《 》『ことあれば、お呼びください。どこからでも駆《人り》けつけましょう。けれどこの広い日天《一てら》の下、そ  の手段も力も持たぬ人はどうすればいいでしょう? 私がもし好き勝手フラフラしておらず、誰かのお抱《⊥り人り》えになっていたら、こうして陛下のお役には立てませんでしたよ?』  だから、行きますと−差し出されたすべての地位も栄誉《えしlょ》も蹟躇《ためら》いなく振り捨てて、風のように姿を消した一人の青年。  先王陛下が病に臥したとき、その言葉通りに彼は訪ねてきた。   先王は枕元《まく∴∵もrご》に彼を呼び、二人きりで話をしーそして華眞を追い返した。 『嘆呵《た人⊥り》きって出てったぶんのことをしてきやがれ、と言われてしまいましたh  気を揉《も》んでいた陶老師に、出てきた華眞ほそう苦笑いした。そして、ふっと帆《まなじり》から笑《え》みを消し、蒼玄王《そうげんおう》の再来とまで称《しょう》された覇王《はおう》の寝室《し人しっ》を見つめた。 『……陛下ほど|傲慢《ごうまん》に、残酷《ぎ′八二く》に、純粋《じ時ん�い》に、人を愛するかたはいらっしゃらないでしょうね。私は誰の命も構わず勝手に救ってしまいますけど、陛下も誰を殺そうが、きっと後悔《二.リネりし》はしないのでしょう。残酷で、優しく、右手で誰かを殺して左手で誰かを救うことに矛盾《むじ醸ん》を感じぬ、決して後ろを振り返らずに駆け抜ける|強烈《きょうれつ》な意志……後世、陛下はなんと称されるのでしょうね』  お前はお前の戦場へ行けと、言われたから行きますと、微笑んだ青年。   朝廷《ちょうてい》という戦場で、病床《げようしょう》にありながら最後ほ我が子も、妾妃《つま》も、臣下も、|処刑《しょけい》を命じた先王。  時を同じくして、華眞もまた、医師としての戦場に在りつづけた証が、ここにある。   医者として打ち震えるほどの感動と同時に、この医学書だ《ヽ》け《ヽ》がここにあることの意味にも、陶老師は気づいた。   いつでも微笑みを絶やさず、この世の誰よりも命と生きることを愛した、彼は、もうー。  (華眞……つ)   医師としても人としても、かなうと思ったことさえなかった、若者。   衝撃にただ言葉もなかった陶老師を我に返らせたのは、秀麗の|緊迫《きんぱく》した〓? だった。    「陶老師!」   ハッと顔を上げると、秀麗の切迫《せつは・、》した眼差《壬なぎ》しとぶつかった。    「念のため、医官の半分を割《、.1》いて朝廷所蔵の医書から杜《・バ一》州牧が書き送ってきた病状と合致する記述をさらってください。もう半分のかたはこの巻書で照合を。大至急でお願いします」  いま、この瞬間にも、彼女の治める地で、病で死んでゆく者がいる。   華眞は、もういない。   lH生き甲斐《わし》ではありません。その力と術《寸ペ》を求め、得た者の、するべきこと、です。陶老師』   いま、このとき、自分のもとにこの医学書が現れたことの意味。    「−半日、お待ちください」  朋  陶老師の双鉾《そうばう》に医師としての自負と衿侍《きょうじ》の光が揺《ゆ》れる。  ユ1《¶》 「手の空いている全医官を即刻《そl? Jく》招集いたします。また、府庫《・い二》の稀少《きしよ∴ノ》蔵書室を借り切りたく存じ机ます。州牧署名の入った書翰を至急ご用意ください」  《しよかん》= 「わかりました。四半刻のうちに用意します。よろしくお願いします」   《l》巻書を手に室《へや》を出て行く陶老師に、若い医官たちも慌《あわ》ててあとに付き従う。   秀麗は残った工部尚書と侍即に向き直った。  l 「−管尚書、欧陽侍即。太常寺大医署を動かして医官を茶州へ派遣《〓一けん》する認可《にんか》をください」   主な薬師・医官の在官する太常寺大医署を、さらに上で統括《とうかつ》するのがT部だった。   管尚書ほ難しい顔を崩さなかった。 「……医官たちの地方派遣か……おい陽玉、《ようぎよく》今まで例はなかったよな?」 「……ええ。陛下が地方へ赴《おもむ》くときに付き添《そ》って行くことはありましたが……単独での派遣は前例がありません」 「今すぐ例つくってください。責任は私がとります」  管尚書がスッと目を細めた。 「いちばん上にいるモソが、簡単に責任とるとか言うんじゃねぇ。お前の肩《かた》に載《の》ってる茶州の責任はそんなに軽いもんじゃねぇだろ。しかもこの女《ふみ》からすっと!」  管尚書は燕舌《えんせト》から届いた朱印《し抽い′九》の文を指ではじいた。 「杜影月は州牧の仕事を副官に押しっけて現地に飛んでっちまったそうじゃねーか。子供だろぅがなんだろーが、曲がりなりにも州牧拝命しといてー」 「|自慢《じ まん》じゃないですけど、私と影月くんにできることなんてほっとんどないんですよ!」  秀麗は章子を力任せにぶっ叩《たた》いた。……本気で自慢にならないところが情けない。 「この件で必死で駆けずり回る州官たちのなか、一人ただ州牧机案《づ.ヽえ》に座って、青ざめながら上がってくる書翰に州牧印を捺《お》してーできることっつったらそんくらいです! びしばし采配《さいはい》ふって、先頭切って事態に対処して|被害《ひ がい》を最小限に食い止めるいちばん良い方法なんて、経験皆無《かいむ》の私たちよか、百戦錬磨《れんま》の州官たちのがよっぽどよくわかってんですよ!!」                                                                                                  nr、▼ゝノ 「だからなんだ。それが経験皆無の州牧ができる唯一《レ.−ヽ.も′l》の仕事だろ」 「わかってますよ。その通りですよ。私だったらおとなしくそーしてますよ。でも影月くんほ、もう一つ別の方法で被害を食い止める手段を持ってた——ー」  秀麗は影月から来た文をひっつかんで管尚書の目の前につきつける。    「影月くんが一番最初にこの異変に気づきました。だから数十年に一度、閉《しL》ざされた村の中で人知れず死んでいく人たちを、初めてすくいあげることができた。−お医者として」  管尚書は|黙《だま》って秀麗を見つめ、一瞬《いつし抽ん》だけ後ろに控《ひか》える悠舜に視線を投げる。   あの悠舜が、視線だけで射殺せそうな顔をしている。……それでもまだ何も言わない。    「いっときますけどね、管尚書だってこんなに早くお医者とかお薬とかの手配と他地区の|被害《ひ がい》把捉《はあ! 、》なんて、適切にできなかったと断言しちゃいますからね。影月くん名医なんですからね」   「……言うじゃねーかLJ 「影月くんほお医者としてやるべきことと言うべきことー必要な情報全部州官たちに残して鞘から、出てったんです。あとの采配は州官たちのほうがよっぽどわかってます。|執務《しつむ》室で右も↑左もわからずにおろおろハンコ捺してるより、一つでも多くのお薬つくって一人でも多く茶州UUの民《たみ》を助けようとする選択《せんたく》は、茶州州牧として|間違《ま ちが》ってますか。責任感なしですか」  《 》 「…………」 「影月くんの意志は私に託《たく》されました。影月くんほ、お医者として州牧として、同の最高医師団の派遣でな《ヽ》く《ヽ》て《ヽ》は《ヽ》な《ヽ》ら《ヽ》な《ヽ》い《ヽ》と判断したんです。なら私がするべきことは決まってます」                                                                        .ノ  おそらくは、尽《√l》きていく命の時間を知った上で、迷わず駆けていった年下の友人。   人知れず病で全滅《ぜんめつ》したという、彼の故郷。   どんな思いで、彼は−。   繰《′lヽ》り返してはならないものが、ある。その力を持っているなら、なおさら。   秀麗の|脳裏《のうり 》に、王位争いで死んでゆく街の人をただ看取《一ハし一》るしかなかった十年前が蘇《よみがえ》る。   ただ葬送《.てう..−:▼.》の三朋《..1》を弾くしかなかったあのlとき、いつも泣きながら宮城を見上げた。   あ《ヽ》の《ヽ》lお《ヽ》城《ヽ》に《ヽ》い《ヽ》る《ヽ》ひ《ヽ》と《ヽ》な《ヽ》ら《ヽ》、そのl力があるのlに、と。 「! こんなときに使える権力使わなくてどうするんですか。私の州牧位が人の命と引き替《か》えになるなんて十等じゃないですか。紅秀麗の州牧位なんて大したもんじゃないんですよ。私は燕青でも悠舜さんでもないし、管尚書や欧陽侍郎でもありません。今の私の替えなんて、いっくらでもきくんです。予備で間に合わせの替えのl婁《りり・.′》みたいなもんですよ。なんたって私も影月くんも若さと無謀《むば・)一》とハッタリと|根性《こんじょう》と家名とかで送られた州牧二人なんですからね。そんなことないとかいって慰《なぐさ》めてくれなくたっていいです。何もできなくていつだって最高に悔《くや》しいのは私たちなんですからね!」 「けけげ、よっくわかってんじゃねーか。なあ陽玉」 「玉です。確かにすばらしく明快で正確な自己|分析《ぶんせき》ですねぇ。拍手《H/、しゅ》拍手」   バチバチと本当に拍手する欧陽侍郎に、秀麗はぷんぷんと|怒《おこ》った。    「なんですって。少しは慰めてくださいよっっ」   管尚書は呵々《カカ》と大笑《たいしょう》したのち、つと秀麗を見据《みトー》えた。    「�それでも、お前が今のー茶州州牧だ」    「そうですLE   「未熟でもはったりでも、今の悠舜にゃ使えねぇ、お前しか持ってねぇ権力がある」    「その通りです。茶州州牧は、私です。茶州を守るのが私の仕事なんです。前例なんか知ったこっちゃありません。茶州のために、管尚書には最大限の協力を求めます。茶州州牧紅秀麗の名において、工部尚書管飛翔殿《かんけしよ∴ノごの》へ、同の最高医師団即時《そくじ》派遣の認可を要請《ようせし、》します」  それは、拒絶《1、⊥ぜつ》を許さぬ州牧としての命令だった。    「今回は飲み比べやってる|暇《ひま》なんてありません。もしダメだっておっしゃるなら、一服盛ってでも色仕掛《いろじカ》けでも殴《な勺、》って気絶させてでも、ハンコもらって一筆書いていただきます。出世払《ぱら》いにしてくださるなら、賄賂《わいろ》だって気前よく送っちゃおうじゃないですか」…草霊紺誹�鵠�得手ですけど……批撃んに薮等なんとか……」葦《.ノ/》 「あー無理無埋。 「年後に出直してこいや。それよか出世払いのがいい。なあ陽玉? L   「玉だっつってるでしょうがこの鶏頭」《とりあたよ》  欧陽侍郎ほ悠舜を見て|溜息《ためいき》をついた。 「とっとと答えないと、鄭州甲《ていしゅういん》に首を絞《し》められてしまいそうですよ」 「わーってら。−おい悠舜、オレにできるのは認可出すだけだぜ」  悠舜は気を落ち着けるように息を深く吸った。 「わかってます。とっとと書くもの書いて出すもの出してください。上層部は私と秀麗殿で黙らせます。それと、太常寺だけでなく他《ほか》の医薬関係の部署とも|交渉《こうしょう》して動かしてください。馬車関係も工部なら顔が利《さ》くでしょう。即刻最速の馬車を二十両用意させて、三日のうちには出立できるように準備を。念のため、他に十両ほど予備車両として確保をお願いします」  さらなる無茶苦茶な要請に管尚書と欧陽侍即は顔を見合わせた。 「……お前、ほんっと政事《まつりごと》になると遠慮《え人りよ》なくこき使ってくれるよな……」 「なんです。お金も出して頂けるんですか」 「そーいうのは奇人《ヽ�ド\人》に言え。一いいか、医師団の派遣っつっても、はっきりいってそんなに数は出せねーぞ。いつ何時主上に何があるかわかんわーんだからな。陶老師はまず無理だ。そのうえでせいぜい半分くれーしか出せねーぞ。いくら腕《う一ご》がよくても数が絶対に足りねぇ。もちろん、薬もな」悠舜が秀麗を見ると、秀麗は厳しい面差《おもぎ》しのまま肯《うなず》きを返した。言わずともわかっていることを知り、悠舜は小さく微笑した。 「! 考えはあります。なんとかします」  管尚書は筆を執《と》りながら、二通のうち、燕青から来た文に視線を送った。    「おい嬢《じょう》ちゃん、茶州に戻《もど》んのか」    「戻ります」   間髪《かんはつ》入れずに返ってきた答えに、管尚書と欧陽侍郎はわずかに押し黙った。    「そーかよ。ま、せいぜい|頑張《がんば 》れや。−さっき出世払いって言いやがったな? L   「はい」  『私の替えなんていくらでもきく』というこの娘《むすめ》の言葉は、まったく事実だ。                         ヽ   ヽ    −今は。    「約束破んじゃねーぞ。どんなに叩き落とされても、きっちり出世してこいや」   秀鹿は|一拍《いっぱく》だけ、返事が|遅《おく》れた。そしてー。    「−最大限、努力します」   |精一杯《せいいっぱい》、笑ってみせた。          革命�穆�  L1.1...  .日剃り紺《〓》 「紺詔で翫禦幣打杜州牧に、さしもの冷静な野寺も僻薔た0淵 「なぜ御《おん》自らたった一人でいらせられました! 軽率《けいそつ》ですぞ!! 」   《l》すぐさま州牧としての責務を厳しく説いて追い返そうとしたが、影月の歳《しLし》に似合わぬ大人び  て決然とした表情に日をつぐむ。   「わかってます。けれど、州城で僕が揮《ふる》える采配《さいHい》はすべてしてきました。残る州牧のお仕事に関しては、僕以上に適切な判断をくだせるかたがたくさんいます。ですが、今回の病についてー今のlところいちばん知識をもっているのは僕です。書面では心許《二ころもしー》ないこともあります。州府にいるよりほ、現地に飛んだ方がお役に立てると判断しました」  事前に、影月から直わ、に病についての指示をもらってはいたので、その言葉に嘘《う・ょ、》はないことはわかる。しかし両太守は州牧にあるまじき行《.1一 「》為だとやはり懇わ、《こ′れ:八》とお説教をした。  とはいえ、ふらふら出歩く州牧は燕青で十年の免疫《中∴う.、ご》ができていたし、正確な情報が必要なこともわかっている。丙太守は燕音に居場所の連絡《れ人・∵、》を入れることを条件に郡府に迎《むか》え入れた。   事前に書き送った書翰《Lよ右り人》の情報を、もう一度影月は細かにそうざらった。 「この病は、他の病とは少し違います。ある特別な条件下で起こりえるものです」   影月は何一つ異変なく何回も迎えた西華《けLいか》村での冬を思い出す。 「……この病は毎年発生するわけではありませんいいつもよりずっと早い冬が来た年に流行《はや》る�そうでしたよねフ」 「ええ。村々でそういった報告は受けました」   「冬が早いということは、秋が短いということです。それは山菜や木の実や山果実といった、秋の収穫が《しゅうかく》減ることになります。早く冬がきてしまったせいで、山の動物たちは冬を越《こ》すための充分な食糧を蓄《じ紬うぷんしよノ、りようたくわ》えることができず、食粒を求めて縄張《なわば》りを越え、人里へ降りてくる!」   丙太守はすぐに書翰の内容を思い返しー察した。    「ユキギツネ……」 「そうです。低地に飛び跳《1》ねる|普通《ふ つう》のウサギやリス、キッネならば、季節を問わず人との接《せつ》触《しょく》は日常的にあります。この病で|唯一《ゆいいつ》例年と違うのは、人跡未踏《じんせきみとう》に近い千里《せんり》山脈の高地に縄張りをもち、|滅多《めった 》に人に近づかないユキギツネの人里での|目撃《もくげき》情報−」  ユキギツネが人里へ降りてくるのは、よほど食糧に困っているときぐらいしかない。それに当てはまるのは『早い冬�そしてこの奇病《きげよう》の躍息《りかん》は、もう山には山菜も果実もほとんど何も残っていない、秋から冬の終わり。   冬に入り、ユキギツネが高地に戻ってしまってから、発症《はつしさっ》−。    「多分、ユキギツネが人の体に病を及《およ》ぼす 「何か』をもっているんです。人里に降りてきたユキギツネほその『何かしを落として、人は知らずにそれを体の中に入れてしまい、発病——�」 「ですが、ユキギツネは人里に降りてはきても、人との接触など無に等しいのですぞ。逃《.、》げ足の速さはオオカ、、、にも優《まゝ、》る。村人のほとんどが発病するなどー」朋 「ユキギツネと直接接触しなくとも、その『何かしを村人のほとんどが口に入れてしまう環《かん》 「   さよ∴ノ粧境があります」γ影月は配酎した。西華村の長老が最後に言い残し、各地にも残る同じような伝承。  ーl『いつもより早い冬がきたとき、水のなかから魔物《ヽヽヽヽヽヽま・もの》がやってくるー』   それが意味することほ!。 「……水、です」  小さな村になればなるほど、水の汲《く》み場所は同一となることが多い。井戸《いど》であれ、川であれ、            ..、.1し毎日誰《.r′.’一1》もが同じ場所から水を汲み、飲料水として口に入れる。 「もし、その水の中に、ユキギツネがその『何か』を落としていったとしたら」   同じ時期に、その『何か』が混入した水を飲んだ大量の発病者が出るー。 「人から人への伝染《でんせん》ではないことほ、バラバラに発病することから見当がつきます。人への伝染なら、まず家族内で次々発症し、そこを起点として同心円状に広がったりするのが普通です。ですがこの奇病は近親に関係なくあっちこっちで唐突《し】∴ノとつ》に発症します。無差別に見えますが、それは単に水を飲み、『何かLを摂取《せつし紬》した時期に差があるだけなんです」 「……だから、水を使うときほ必ず煮沸《しやふつ》せよとおっしゃったのですか……!」 「はい。水中のものは冷気には強いですが、熱には非常に弱いものです。水の中に何がいるとしても、煮沸すれば死滅《しめつ》するはずです。それに発病者に外傷がないことから、経口摂取……つまり口や鼻などからの進入の可能性が高い。原始的ですけど、一度煮沸したぬるま湯でこまめに手を洗うことも有効です。……ユキギツネを見かけたくらいの時期なら……ですけど」  雁患し、体内に入ってしまってからでは、もう遅《おそ》い−。 「……失礼ですが、それほどこの病にお詳《くわ》しいのほなぜですか?」   影月は高峰《こうほう》連なる千里山脈を見上げた。……あの山の向こうに、西華村はあった。 「……国試を受ける前、僕のいた村は、僕と僕に医術を教えてくれた師をのぞいて、同じ病で全滅《ぜんめつ》したんです」  一拍おいて、丙太守は息を呑《の》んだ。   影月は瞑目した。むりやり、運命を曲げてまで我健《わがまま》を|貫《つらぬ》いたひと。   二人きりになってしまった村で、自分は必死に国試の勉強をした。そして堂主《どうしゅ》様は−。 「師はこの病の原因と治療《おりりょ・フ》法をずっと調べつづけていました。今の僕がもつ知識は、僕が師と別れて国試受験のために村をでる両前までに師が究明していたことなんです」 「……では、治療法までは−……」   「あります」   −約束だよ。悲しいとき以外はなるべく笑うこと。いつだって生きることをあきらめないこと。そしてね、私も君に約束するよ�……。 『この病のl原因と治療法を、必ず見つけてみせるよ。……私は、倣《おご》っていたね。この国には、まだまだ原因不明の病が、たくさんある。この病だけじゃない。君を見送ったら、私も旅に出るよ。君がくれた命の最期《さいご》の時まで、私は私の在るべき戦場で戦ってみせる』ノ  影月は官吏《かんり》として。堂主様はお医者として。  …鍼榊紺折嗅持紬崩摘択最摘欝かっていた。  U  ぼろぼろと泣く影月に、約束をくれた堂主様。   《・》堂主様は、絶対に約束を破らない。きっと誰かに治療法を託《た・、》している−。   不意に|脳裏《のうり 》に浮《う》かぶのは、秀麗の顔。                                                                         1�ノ   いつだって、最善を尽《rl》くしてくれるひと。  彼女がもってきてくれる1なぜか、そんな気がした。 「治療法は、絶対あります。王都から、必ず|到着《とうちゃく》します。そのときまで最善を尽くすのが僕の役目です。どうか、僕に力を貸してください」  勤《lリよ》い意志のこもった眼差《l主なぎ》しに、再太守は領《うなず》くように陵毛《まりげ》を伏せた。 「……あなたのいち早い指示のおかげで病の早期発見がなり、『予防ト 「が間に合った村や街も多くあります。あとは、発病してしまった者の治療と!」  不意に、内太守の表情に翳《かげ》りが差した。 「ここにいらっしゃったの示、紅州牧でなくて本当によかった」 「え? L 「実はー……」   丙太守から初めて�邪仙教″《じやせんきょう》の動向を聞き知った影月は陛目《ごうもlノ、》した。 「じゃあ、もしかしていま石集《せさえい》村は!」 「……ええ。紅州牧がいらっしやっていたら大変なことになっていたはずです。浪州事に文《ろうし�ういん・ルみ》を出しておいたので、ここまでいらっしゃることはないでしょうがロー」 「−すぐに石柴村に出立します」影月は即座《そくぎ》に立ち上がった。 「秀麗さんは必ずきます」 「なんですとし 「きます。誰がなんと言おうと、必ずお医者と薬を伴《と一む左》って王都からこの虎林郡へ向かってきます。僕が知っている秀麗さんは、そういうひとです」  病の蔓延《よんえん》する村へあえて行くために、たった一人で駆《か》けてきた少年。   すべての全権を浪州事.に預けてきても、彼もまた 「州牧Lだった。 「丙太守、断言します。病が秀麗さんのせいなんて、絶対にあり得ません」 「それはもちろん! ⊥ 「けれど、その�邪仙教″がそういったことを言いふらし、信じる者が多く出始めている以上、秀麗さん自身がここへこなければ、事態は収束しないでしょう」 「…………」 「だから、きます。たとえどんな目に遭《あ》うかわかっていてもー」  影月は深々と丙太守に頭を下げた。  一 「秀麗さんがくるまで、僕もできる限りのことをしておきます。丙太守、今まで以上に�邪柚の教″をよく見ておいてください。……少し、|妙《みょう》な気がします」《′》 「妙?」 「『一人も発病者が出ていない』というのが事実だからこそ、村の方々も入信するのでしょう。《−》燕青さんが若才《めいさい》さんから�邪仙教″の報告を受けたのは秋の終わりーということは、その前  から�邪仙教″というのは山で生活していたわけですよね」 「ええ……。……−つ!」 「そうです。雁愚の時期によりにもよってユキギツネの飛び回る山にいながら、一人も発病者がいないというのは、どう考えてもおかしい。ですが、この奇病はユキギツネで流行を察知し、『水を煮沸』するという予防法を知っていれば、防げる病でもあります」 「……ま…さか、この病の流行と予防法を知りながら、|黙《だま》っていた−とっ・」 「断言はできません。ですが−」  いつも|穏《おだ》やかに|微笑《ほほえ》む影月の瞳が《ひとみ》、怒《しカ》りに険しくつり上がる。 「もしそうなら、僕は絶対に許しません」   雪に埋《∴ノず》もれた、山深き小さな小さな村。   もし、あのとき、自分や堂主様が流行の兆《さぎ》しと、予防を知っていたならー。   誰か、この治療法を知っていたなら−と。   無力と|後悔《こうかい》。流した涙《なみだ》と、喪《うしな》った多くの大切な命。   絶望。   その方法を知っていながら、何もせずに放《ほ、ワ》っておいたとしたら。 「絶対に、許しません……つ!」   喪われた命ほ、もう、二度と戻《.もり」》らない。   何が目的であろうと、生命を弄《いのちもてあそ》ぶ者を、影月は決して許さない。 「一つだけわかるのは、�邪仙教″に入っても、絶対に病は治らないということだけです。もし治療法を知っていて、それで『転ばせ』ようとしているなら、これほどの死者は出ていないはずです。山に連れて行かれたというひとは、ただ死を待つだけー」  もしも、治療法を知らないくせに、ただ病が広がるのを見ていただけだとしたら。 「そんなののただ中にあれば、錯綜《ヽ、′\一て∴ノ》する不確かな情報で混乱し、死期が早まるだけです。用意を終えたら、すぐに右葉村に発《た》ちます。郡府から案内役をお願いします」   「わー�」 「丙太守はいらっしやってはいけませんよ。虎林郡府で、まだすべきことがあるでしょう?」   「……杜州牧が向かわれて私が留《とご》まるとは、おかしいとは思われませんか」 「ぜんぜんおかしくないです。疲《つか》れからくる気のせいですー。青汁つくっていきましょうか」 「青汁なら健康のために毎日飲んでおりますが、私とて命を惜《お》しむつもりはありませんぞ」   「惜しんでください」  影月は丙太守の血の通って温かい手をとった。  棚 「惜しんでください。そんなことを言わないで。とてもとても大切なものなんです」  …机鍋霊粧玩鵠醤珂誹錮…縮�結鵠最頂1 「ならばなおさら私などよりー」   《⊥》 「あ、僕ほ惜しんできましたよー。ものすごーく惜しんできました。命の惜しみかたなら国で三指に入る自信があります。もちろんこれからも命は惜しみますから、ご心配なくー」 「……あなたと紅州牧は茶州の州牧です」 「ほい。でも官吏は、上司を守るのがお仕事ですか?」   千四歳の少年が、官吏にとっていちばん大切なことはなんだと、訊《ヽ、》いてくる。   丙太守は、初めて、この小さな州牧の下《一Uレ】》で働いてみたいと、心から思った。 「……お約束願えますか。決して無理はしないこと、絶対に帰ってくることを」    ちんもく     いつはく   沈黙は、一拍。そしてー。 「−最大限、努力します」   命を惜しんでも、尽きていく時間を知っている影月には、ただそれしか言えなかった。 「丙太守、これから何が起こっても、どうか秀麗さんに力を貸してあげてください」   丙太守は返事のかわりに、州牧に対する正式な脆拝《きはい》の礼をとった。   影月は微笑み、そしてその日のうちに、もっとも病が広がる石菜村に飛んだ。         �命儲歯車 「�これか……つ!」   日が|沈《しず》む頃《ころ》−陶老師は華眞の記した書物のなかの一冊、ある記述の場所で手を止めた。紙《し》幅《Jく》を大きく費《つい》やし、今まで調べたなかでもいっそう事細かに記されたそれは、積み重なる巻書  の中でもいちばん最初に書かれたものらしく、紙も古びてポロポロになりかけていた。    「ありましたか!?」   若手の医官たちが|歓声《かんせい》を上げて陶老師の下《もと》に次々と飛んでくる。    「……症例《しようれい》は千里山脈を挟《はさ》んで反対側の山間部……冬の初めの発症《はlつしょう》……場所、条件、発病時期           こ・l、じ  しようじよう     お∴ノだんてのひ・りこうはん      くつきよく            む! 、みともに酷似。症状は……黄填掌の紅斑と指の屈叫腹水、足の浮畢…‥なるほど。確かに、同一の可能性は非常に高いですね……!」   「すごい! 感染《かんせん》経路と予防まで記されてーえ……」                                .ノ   明るく沸《 4》いた空気は、すぐにしんと静まりかえる。   その先の|治療《ちりょう》法まですでに読破していた陶老師の手が、ぶるぶると震《ふる》える。    「こん……こんなーL  伝説の神医・華郷《かだ》老師の血を引き、代々秘伝の医術をあまた継承《けいしょう》してきた華《か》一族。                    いゼん  いとしご      しよう     さりんじ     しん   そのなかでも医柚の寵児とまで称された願麟児・華眞。   治療法は確かに記されてある。けれど、これはー。  珊《一▼−’J》 「錮鱒打軒れてきた、華郷老師伝来の秘術の;。彩  −李−!?掛争卦掛宗か放下か掛、究極の医術法だった。  測 「治療が、できない……?」   陶《とう》老師に呼ばれて飛んでいった秀麗《しゅうれい》は、告げられた言葉に|呆然《ぼうぜん》とした。   このときまでには悠舜の他《�うし時んほか》に、知らせを受けた柴凛《さいりん》と茶克洵も急遽《さこくじゆ人きゅうき上》登城してきていた。   故郷の地で起こったとんでもない事態を耳にして、二人ともに|衝撃《しょうげき》で顔を強張《こわぼ》らせていたのだが、陶老師の〓? にますます青ざめる。   静まりかえった室内の中、秀麗は必死で落ち着こうと努力した。 「……理由を、お聞かせ願えますか?」   陶老師は例の巻書を取り出し、見えるように草子に広げて見せた。 「……この病の原因は、�虫″です」 「虫?虫が体内に巣くったっていうんですか?」 「そうです。この記述によると、千里《せんり》山脈の高地に暮らす……主にユキギツネが、その虫の宿主となっているようです。ユキギツネの糞《ふん》とともに虫卵は排出《ちゅうらん.はいしゅつ》されます。ですからユキギツネの縄張《なわば》りで、たとえば山薬や山果実を採って、卵がついているのに気づかずにうっかり食べてしまうと、虫卵が人体に入り込み、体内で醇《.J》化《人り》、成長する−」   克泡は気持ち悪さに青ざめて日を押さえた。    「しかしいちばん可能性が高く、かつ集団発生しやすいのは、ユキギツネが虫卵を|含《ふく》んだ糞を井戸《いど》や川に落とし、知らずにその水lを縫目摂取《せつしゅ》することだと記されております」  陶老師は影月《えいげつ》から届いた書翰《しよかん》に感嘆《かんたん》の眼差《まなぎ》しを向けた。    「ですから、杜《と》州牧のとった|迅速《じんそく》な処置は非常に適切で的を射ています。調べたところユキギツネの数は少なく、縄張りの分布も限りがありますから、まだユキギツネが降りてこない場所での『予防』は|充分《じゅうぶん》功を奏し、|被害《ひ がい》は日坂中限に食い止められたと思います」  秀麗は事態を理解し、焦《あせ》りを抑《おき》えるためにも、あえて結論を急がなかった。    「発病してしまったひとは……その『虫』が、つまりは原因なんですよね? L   「そうです。酵化し、成長した虫のために、体内が蝕《むしば》まれていくのです」    「……確か、他にも虫が体内に入り込む病って、ありましたよね? 虫下しとかでー」    「……この病の場合、虫下し等の服用薬はほとんど意味がないのです」 「《L−》絹滞錆結醤絹《⊥り》冊軽、育ちます0つまり、薬を…投与《とうよ》してもこの哀』に阻《よ∫》まれて、効果がないのです。治療は、この袋ごと取り出すしかないと、巻書には記されておりました」   秀麗は意味がよくわからずに額を押さえた。  1《一》 「……え。袋ごと、とりだすフうて……、体の中にあるものをどうやって……」   |記憶《き おく》を探《さぐ》っていた悠舜はハッと陶老師を見上げた。    「まさか! 華姉《かだ》老師の」    「……はい。人体切開、です」   ! しん、と、沈黙が落ちた。   克洵ほ自分のl耳がおかしくなったのかと思った。 「……じ、人体切開って、ま、まさか、お腹《なか》切っちゃったり……なーんちやってアハ」    「なーんちやってです。そうして虫を袋ごとカポッと取り出すのです」   陶老師は、患者《丸んいしゃ》の家族(?)の衝撃を何とか緩和《わ・八〜》しょうと精一杯頑張《せいいつlほしlがんげ》ったが、失敗した。   克軸は顎《あ�一》がはずれそうになった。 「だ、だって、お腹切ってあとどうすんです!?その虫を取り除《lのぞ》けたって、お腹切って生きてられるわけないじゃないですか! 破れた袖《そで》とかなら、春姫《L時・l在き》が縫《ぬ》ってくれますけど−」  陶老師は無言でカリカリとこめかみのあたりをかいた。   他の若手医官もそれぞれ目をそらした。                                                          ..11し   それだけでその場の誰《一.・一ヽ》もが理解した。 「−え!?ええっ!?まさかはんっとうに縫い合わせんですか!?だ、だってお魚だって、さばいたら終わりじゃないですか! 縫い合わせても生き返りませんよ!?えっ、秀麗さん、生き返りましたっけ!?」    「え、いや、だって常に食欲優先で縫うなんて考えたことも……。しかも最初に首を落としで昇天《しトそりて八》させてるから、さばく前にすでに死んでるんだけど……うーん、生きたままお腹さはいでまた縫えば、泳ぎだしたりするの示しら……?」  秀麗の二言葉に、柴凛もある話を思い出した。    「ふむ。そういえば私も、凄腕の庖丁な《ナごうで13よ・ワりに′れ》ら、スパッと腹をさばいて魚卵を取り出して放すと、その切れ味の鋭《寸るど》さに魚も切られたことに気づかずにまた|普通《ふ つう》に泳ぎ出すと聞いたことがあるなあ、あと凄腕の剣士《け人し》が気合い入れて大根を切ると、一刀両断したあとにまたくっつくとか」  陶老師は意気込んだ。    「そうですそうです。まあそんな感じで、死ぬ前に縫い合わせるのです」   しかし克軸は煽《だま》されなかった。ぶんぶんと苗を娠った。    「ああありえないですよ! 大根じゃないんですから、切れば血だって出ちゃうんですよ!?しかも縫うって! 腹を縫う! ぎゃー考えるだけでめちゃめちゃ痛いじゃないですかー!!」皿《L−》 「いえ、でも指を切っても放《ほう》っておけば自然とふさがるでしょうっことりあえず縫っておけば即また自然にくっつくものなのです。……理論上は……」圭《ノ′/》 「と、陶師匠《ししょう》、せっかくイイ感じだったのlに! 最後のふとことはいっちゃダメですよー!」…ポッッと本音を渥《も》らした師匠に、慌《あわ》てて弟子《でし》たちが小声でたし頂紬たが、もう遅《おそ》かった。   理論上というひと言が、静まりかえった室内に延々とむなしく木霊した。   コホソ、と悠舜が|咳払《せきばら》いをした。 「……確かに、戦場では役に立たなくなった腕《うさ》を切り落とす話は伺《うわ∵力》いますが」 「はい。そのままだと腕からどんどん腐《ノ\さ》って結局死に至ることが知られているからです」  腕から腐るという三一月葉に、克泡は踊《おご》り出したくなった。もう何かしていないとすさまじい話の数々に小さな蚤《ノミ》の心肺《し人ふ》が耐《た》えられそうにない。 「腕一本切り落としても、生きてる方はいらっしゃいますね」 「ええ。……しかしそれがもとで命を落とす方もおります。運、と兵士の間では言われているようですが……。確かに個々の体力や生命力は関係がありますが、おそらくいちばんの問題は切断の仕方、そのあとの対処法によって命運がわかれるのです」 「さはっきりお伺いいたしましょう。そこまで詳《くわ》しくわかっていながら、さきほど、治療は無理と仰《おつLや》いましたね?なぜですか?」  陶老師をはじめ、医官たちが悔《ノ、や》しそうにうなだれた。   ぐっと、陶老師は敏《L才》の刻まれた手を白くなるほど掟《こざ》りしめた。 「……高度すぎるのです……」   絞《しぼ》り出すように、陶老師は無力を吐露《とろ》した。 「あまりにも、今の私たちにとって、高度な技術すぎるのです。人体切開の術は、過去いくつもの例があります。けれど、そのほとんどが失敗に終わっています。腕を落とすならまだしも、命の源が詰《つ》まっている腹を切り開くのは、相当の危険が伴《ともな》います。先ほどの例で言えば、よほどの名庖丁《りよ、フりに′八》でない限り、腹をさばいた魚が二度と生き返らないのと同じです……」   陶老師は、昔々に華眞《J・りしん》の人体切開を見た記憶がある。   素|曙《あけぼの》らしい技《わぎ》だった。そして一人生の終わりまでに、自分の医術はそこまで辿《たど》り着けるだろうかと、思った。    「人体切開の開祖は華榔《かだ》老師と言われております……。華《か》家には、人体切開に関するいくつもの秘術が脈々と受け継《つ》がれていると開きます。人体切開を成功させた医師のほとんどが華姓《せい》なのです。けれどその多くは、親から子へ、日伝と経験によって受け継がれる……j  それを受け継いだ、華眞はもういない。   「……私がもっと、若ければ−!」   陶老師は自分の披深い手を、顔をゆがめて睨《にら》み付けた。   医官のなかで、あの技術を見たのは、自分だけだ。たとえ見よう見|真似《まね》でも何でもき。   けれど、年老いて自分の目はかすみ、手の震《ふる》えも覚えるようになった。    「若…ければ�!」  閻《t−1》悔しい。悔しい。あの若者の、志を、その心と技術を、人の命を�。  甜っなぐことができないなんて。  葦《.′ノ》一度もその医術を見たことのない医官では、人体切開など論外だ。薬の調合ではないのだ。  周多くの優《すぐ》れた医者でも、失敗してきた超《ちょう》高等医術。何もわからぬ|素人《しろうと》が、本を見ながらおそるおそる魚をさばいたってぐしゃぐしゃになるだけだ。たとえ切開法が細かく巻書に記されてい  ても! 力加減や、切除の仕方や、切開の早さで、命は簡単に失われる。   人の′体は、しぶとくて、同時にとても、もろい。   せめて、一人でも、切開の指導ができる医者がいれば1。 「……誰か、いないんですか」   秀麗の言葉に、陶老師は顔を上げた。 「他《ほか》に、誰か、成功したかたは、いないんですか。|噂《うわさ》でも何でも」   あきらめない秀麗の声に、ややあって一人の若手医官が躊躇《ためら》うように日をひらいた。 「……その、ぼく、一人、知ってるかもしれませんl…  いっせいに突き刺《⊥J》さってきた視線にうろたえつつも、医官は音を思い出した。 「国中を巡《めり・》ってるっていうお医者で、今はどこにいるかはわからないんですけど……。その、里帰りしたときに聞いた話で、ぼくがその場にいたわけじゃないし。……ずっと前、故郷の村長がお腹にしこりみたいなもの示できて痛がlつてたときがあったそうで、ちょうど村に|滞在《たいざい》していたお医者に治療《Lリ〓! fご 「》してもらったっていうんです。村長はそのとき、腹を切られて、石が出てきたら治ったっていうんですよ。見たら本当に微《かナ》かに縫い合わせたような痕《あと》もあって。でも職業上、そんなことできる名医がふらふらしてるわけないって思ったんですけどー」 「……なぁ、それって華眞さんとかいうオチじゃないだろな」  ビシッと入った同僚《どうりょう》のつっこみに、若い医官は慌てて首を横に振った。 「違《らが》うよ。お前だって名前聞いたら|驚《おどろ》くよ。ぼくも宮城にあがってその名前知って、ものすごい驚いたもん。当代一の医仙《いせん》ていわれてる、あの人だったんだよ」   陶老師をはじめとする医官たちがそろってぎょっと息を呑《の》んだ。    「——うっそ、マンでいたんかよ!?」    「オレ噂だけの眉唾《まゆつげ》だと思ってたぜ!」    「てゆーかまだ生きてんの!?ナニモノだよ」   思わず素に戻《も戸】》っている若い医官たちに、秀麗はバン! と両手を打った。    「はい、そこまで。陶老師、そのかたは?」    「……華員と違って、名前以外、素性《すじょう》は|一切《いっさい》わかりません。けれど医者になれば必ずどこかで耳にする名です。どこでそれほどの医術を修めたのか、一切謎《なぞ》に包まれておりますが……」   「名医なんですね?」   「他ならぬ華眞も、いつかお会いしたいと申していたほどです。華眞が旅に出たのも、その方の影響が《えいきょう》非常に大きいのです。ひとつところに留《とご》まることのない、放浪《ほうろう》の医仙……」   「そ、そ、その人の名は!?」加  その名を聞いたとき、秀麗は�日を、点にした。  1  1ヾJノゃ      へや  とげらけやぶ            すそ         かいろう  ばくそ∴ノ  J  室の扉を蹴破って、秀麗ほ裾をからげて回廊を爆走した。   《⊥》まるで行き|倒《たお》れかけた馬が人参《にんじん》に向かって一目散に全力疾走《しっそう》するようなすさまじい気迫《きはく》に、  誰《だオl》もが道を譲《ゆず》って唖然《あぜん》と姫《けめ》州牧の背を見送った。 「ぼく……お馬より速く走る女の人、初めて見ました……』  殿上していた幼い侍億《じどう》は、のちにそのときのことを涙《なみだ》ぐんでそう漏らしたほどであった。   秀麗は|鬼気《きき》迫《せま》る形相で回廊を駆《か》けながら、外門までの道筋をほじきだす。一つ先の回廊を曲がったところで庭院《にわ》を突っ切るのが軒《J、る圭》を使える外門までの最|短|距離《きょり 》と算出すると、迷わず実行するために回廊を曲がった。 「−うおおう? 秀麗殿、ずいぶん急いでおるのう」 「あ、お久しぶりです宵《しょう》大師! すみませんご|挨拶《あいさつ》はまたのちほどゆっくり�」   二人連れの宵大師のそばを駆け抜《ぬ》け−ぴたりと足を止める。   勢いよく振り返ると、害大師の隣《となり》にいた老人がひょいっと手をふった。 「ほっは、久しぶりじゃのー、秀麗嬢《じlよう》ちゃん。風邪《かぜ》なんかひいてないかの?」   秀麗はよくお世話になっているご近所のお医者に、ぶるぶると震えた。    −そういえば、このお医者は雷大師とも知り合いだったのだ。   夏パテの特効薬を|普通《ふ つう》にもらっちゃったりしていたが、タダモノであるわけがなかった。 「よ、よ、薬医師   《ようせんせい》っっっ!!」         ㈳串藩命�   華眞をしのぐ医仙・葉綜庚《ようしゅこう》のあっさりした出没《しゅつぼつ》に、陶老師以下、医官全員が固まった。    「宵のバカに突然《しこつぜん》呼び出されたときはなにごとかと思ったがの……」   葉医師は固まっている医官たちに構わず、華眞が記した巻書を次々とめくっていった。   いつも人好きのする笑《え》みを|浮《う》かべるその顔から、表情が消えていく。    「……人、というものはまったく……」   どこまでもどこまでも、生きることをあきらめない。   たった一人でも、こんな風にいつだって不可能を越《−し》えていく。   その、果てしない想《おも》いの力。    「え?」    「うんにゃ、よくここまで、と、思ってのう……」    「できますか!?」    「嬢ちゃんの頼《たの》みじゃ、引き受けないわけにゃあいかんの。貫陽《きょう》にもだいぶ長居しすぎたし、そろそろ茶州あたりに行ってみようと思ってたんじゃい」腑その言葉に、陶老師はようやく我に返った。  イ■一《、.》〆 「で、では、人体切開の術を……つ!?」  ゃ《.ノ》 「あーまあ、できるできる〜」  け  まさか華郷に最初に伝授したのは自分《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》とは言えず、葉医師は適当にお茶を濁《にご》した。   《‖‖》 「が、のう……。器貝が必要なんじゃが……参ったのう。自分用の数本しかないんじゃ。万一に備えて一応使えるように研《と》いじゃおったが……患者《かんじゃ》がそんなに大量にいるならとても足りんわい。しかもド素人にも扱《あつカl》わせるとなると−」  ちらっと葉医師が若手医官たちに視線を送ると、医官たちはぎょっと飛び上がった。 「え!?ま、まさか私たちもやるんですかッ!?」 「わし一人に何士人も腹さばかせつづけるつもりかい。老人いたわれっつーの。なんじゃい、お前さんらも一緒《い 「Lょ》に茶州に行くんじゃろフ」 「え、いや、あの、ででででも−」   おろおろする弟子《′ごし》たちに、見ていた陶老師はわなわなと震えさくわっと日を剥《む》いた。次いでペ。へ。へ。へん! と手にした筍《しやく》で問答無用に弟子たちの頭をはたいていく。 「こんの啓沢者《ぜいた‥もの》めらがっ!!」 「と、陶師匠《�rしよ∴ノ》……?」 「迷うやつがあるか!!わしが若けりゃ一も二もなく飛んでってついてったわ! 当代随一《でいいら》の医術を拝める機会をフイにするつもりかこの|小僧《こ ぞう》ども! いいか、あの華眞でさえ教えを請《こ》いたいと切望していたお人だぞ! おおその若さよこせ! そしたらわしが行くっ」 「うわー落ち着いてください師匠!」ー 「そんなに怒《おこ》るとポックリ逝っちゃいますって!」 「医師として……どれほどの宝を受け継《、ノ》げるのか、今しかないこの機会を……ツ!」怒髪《ごは 「》天を衝《つ》いて悔《くや》しそうにパンパンと草子を叩《たた》く陶老師を、弟子たちが必死でなだめる。 「わかってます。ぼく、行きます」 「そうですよ。行かないなんて言ってないじゃないですか」 「おれたち、陶老師の直弟子ですよ?」   陶老師はピタリと卓子を叩くのをやめた。   弟子たちは顔を見合わせ、|一斉《いっせい》に葉医師に脆拝《さはい》の礼をとった。   命をつなぐ秘術。華眞が記した医学書。伝説と謳《.った》われた医仙が目の前にいる。   心震《・�る》えぬわけがない。受け継ぎたいと思うのは、陶老師だけではない。   他ならぬ陶老師に叩き込まれた、医師としての自負と誇《はこ》り。 「〜よろしく、ご指導お願いします」   葉医師はつるりと顎賓《あごひげ》をなで、苦笑《くしょう》する。……弟子をとるのもずいぶんと久しぶりだ。 「よし、じゃ、まずは庖厨所《l)ようりどころ》に行くから用意してくるんじゃな。なるべくポロに|着替《きが》えてな」 「……は? 庖厨所?」 「まずは豚《ぷた》くんとかでカッさばく練習せんとな。次は墓場とか葬儀《そうぎ》屋の死体で練習じゃぞい」▼  聞いていた克洵のほうが気絶しそうになったが、実際やる方はたまったもんじゃなかった。  l 「さは、墓場!?」 「し、LLL死体!?」 「あったりまえじゃろ一。いきなり生きてる人間でやるつもりかい」 「マジですかー!?」 「たたた崇《たた》られたらビーすんですかっっ!?」                                                                                                                                                                   ヽノ 「あー、だいじょぷだいじょぶ。ちゃんと切開前にお詫《.1》びとお礼をしっかり言って、よく拝んどくんじゃぞ。丁寧《ていねし.》に扱って、終わったらちゃんと埋《う・》めてあげるんじゃ。わしなんか、たまーに透《寸》けた姿でお礼にきてくれることもあってのー。嬉《.つ 41》しいじゃないか」  それほどうなのか、と医宮たちは思うと同時に、かなりの軽さに本当にあの伝説の医仙かと、一抹《いらまつ》の疑いを抱《いだ》いたのだった。 「|状況《じょうきょう》聞けば、|悠長《ゆうちょう》にやってられんのう。一日動物、二日死体で練習ってとこかいな。寝《わ》る間もないと思っとけよー。で、問題はやっぱり−」 「−懸念《!?わ人》の器具とは、この、薄《−∴lT》い小刀のことですね?」ずっと巻書の一絵図を見ていた柴凛が、描《えが》いてあらた切開用の小刀を指さした。 「……刃物《はもの》をもち慣れぬ医師でも紛鷹《ヽL一れい》に人体切開ができるくらいの切れ味……体力の落ちた患者さんに影響が《えいきょう》少ないように薄ければ薄いほどいいか……細かな処理ができるくらい小型で、長時間使用でも腕《うで》に負担のかからぬ超《ちよ、つ》軽U雪ある程度の強度と、錆《さ》びの少ない配合−口上真剣《しんけ人》な眼差《まなぎ》しでぶつぶつと|呟《つぶや》く妻に、悠舜は静かに訊《き》いた。 「−開発できそうですかっ・凍」 「発明家たる誇りにかけて承りましょう。すぐ計算と設計に入ります。工部尚書殿《しようlしよどの》にもう一度協力要請《ょうゼい》して、工部秘蔵の技術者を貸していただけるように頼んでください。それと名のある刀匠《レーlつしよ、つ》の待機を。一目半で小刀設計を確定させます。そのあと半日でいくつか打ってもらい、死体での練習に使っていただきましょう。使えると判断したなら、細かな摺《�》り合わせもかねて最後の一目で百本製造に移ります。それで足りますか? 薬医師」 「練習用と合わせて二百は欲しいの。あと他《ほか》にも何種類か頼もうか。切れすぎる小刀だけじゃと、余計なとこまで切っちまってちょいまずいことになるんでの。こう、切れ味を少し落として、切っ先が曲がったようなやつとーあとはこう、ちょちょいと挟《はさ》めるようなー」  さらさらと描かれて心く器具を、柴凛が頭に叩き込みながら領《うなず》いた。 「わかりました。では日一那《だ人な》様、紅州牧。二日で名刀鍛冶《かじ》をできるだけ多くかき集めてください。全商連には腕の良い刀匠がそろってますよ。では一足先に府嵐《,.,.一》に向かいます」   柴凛は思考に沈《しず》んだ厳しい面持《おもも》ちのまま、諷爽《さl? てう》と|踵《きびす》を返して出て行ったのだった。 「運を、引き寄せとるのう秀麗嬢《‥しよ・リ》ちゃん。大事なこったぞ」   葉医師の笑顔に、秀麗は震えながら短く息を吸いこんだ。   じー真っ暗だった先に、一筋の光が差しこむ。   助かる。助けられる−。  二《ノ》描譜般鱒巌絹鐙《時の運と、今まで出会ってきた人の縁《−えん》。》がにへたりこみ泣いて喜ぶのも早すぎる。最大限にこの運を活用するために、まだすべきことが残っている。   《.》……薬、ですね子葉医師《せ・んせい》」 「そうじゃ。全然足りん。あとでされば鍼師《はりし》と医者もなー」 「ほい。−陶老師、この巻書に書かれてる医薬の価値は、どれくらいですか?」 「万金にも優《よさ》りましょう。金品で換《か》えられるものではございませぬ」 「その価値がわかるかたなら、喉《のご》から手が出るほど欲しがられるというわけですね?」 「そのとおりです」 「……わかりました」  秀麗は悠舜と目を見交《みか》わし、頷いた。 「これ、一冊お借りします。あと葉医師《せんせい》のお名前も拝借しちゃいますよ」 「わしゃ恥《ま》ずかしがり屋なんじゃが、しよーがない。そんかわし、キチッと|頑張《がんば 》るんじゃぞい」 「−秀魔さん」その声に顔を向けると、克洵が青ざめながらまっすぐに秀麗を見つめた。 「どこまでお役に立つかわかりませんが、茶家当主として一筆書きます。僕はここで、悠舜さんと一緒に交渉《こ−つしよ∴ノ》に当たります。茶家当主がいることで有利になるかもしれませんから」秀麗は州牧として深々と頭を下げた。 「ぜひ、お願いします。−悠舜さん」 「ええ。朝廷《ちょうてい》はお任せください。各省庁の内諾及《ないだくおよ》びお金の心配は無用です。必要な手はすべて打っておくことをお約束いたしましょう。燕青《えんせい》を見習って、ここは出世払《ばら》いでツケさせます。遠慮《えんりょ》なく大見得を切ってきてください。最終手段もすぐにもぎとってお届けいたします」   悠舜は少し|溜息《ためいき》をついて、秀麗を見つめた。 「今回は全商連と直接交渉せずとも帰れそうだったのですが、そうもいかなくなりましたね」 「はい」 「私はギリギリまで上層部をおさえておきます。全商連のほうを、お願いいたしますね」  悠舜にぎゅっと手を|握《にぎ》られ、秀麗は深い息を吸った。そして顔を上げる。 「−はい」   そして、秀鹿は再び全商連に向かうべく、踵を返した。         �㉃㉂㉃�   宮城の軒《くるま》に乗り、州牧として全商連に|到着《とうちゃく》した秀麗は前と違《ちが》ってすぐに奥の室《へや》に通された。   ずらりと並んでいる光景は、金華で交渉した全商連を思い出させる。   彼らが幹部達�彩《さい》″なのか、そうでないかは秀席にはわからなかったし、今このとき、それ一 「針紺机最賢人名乗っ《ハはたいして重要なことではなかった。》た糧の男に、秀麗は開口一番そう告げた。  ずらりと並ぶ責陽全商連の面々は、秀麗が悠舜も柴凛も連れずにたった一人で乗り込んでき《▼》たことに|驚《おどろ》いたが、余計なことは訊かなかった。 「取引とは?」 「茶州府は全商連系列の医師・鍼術師《しんじゆrJL》・薬師と〓疋期間雇用契約《こよ∴ノけいやく》を結びたいと思います。多ければ多いほど結構です。条件は四日後には茶州虎林《こり人》郡に飛んでくださること、期間は少なくとも行程を入れて数ヶ月。責陽全商連でなくとも構いません。茶州により近い郡の医師で、すぐに飛んでくださるならなお助かりますしぎわ、と室内が揺《ゆ》れた。正面に座る公孫と名乗る男はこめかみを押さえた。彼は一見|微笑《ほほえ》んでいるようだが、見ようによっては無表情にも見えてくるような、表情の読めない男だった。声も冷たいというよりやわらかだが、感情を判断できない点では同じだった。綺麗にそろえられた短い口ひげがよく似合い、額にかかる|前髪《まえがみ》が瞳《ひとみ》の色とともに心を隠《か! 、》す。 「……もしや虎林郡で、病がっ」 「そうです。人手が足りないのです。勿論《し�ろん》、費用はこちらで全額お支払《しは∴》いします」 「流行《りや》り病ですかし 「ほい。けれど病に関する情報はわかってます。人から人への伝染《でんせん》はありません。確患《り.−乃人》の時期も過ぎました。予防法もあります。あと足りないのは治療《おりりよ・り》をする医師です」                                                                                                                                ◆−ニっ 「……失礼ですが、相当の金額がかかりますよ。今の茶州府に払《.1》《.》えますかL秀麗はその問いに対する答えをあえて後回しにした。 「実はこれに関係してもう一つ要請したいことがあります。虫l貝陽全商連には名刀匠がそろっていると柴凛殿《さいり人ごの》から伺《うかが》いました。明後日までに腕の良い刀鍛冶《かたなかじ》をそろえていただきたいのです」|妙《みょう》な申し出に、誰《だれ》もが|呆気《あっけ 》にとられた。医者と刀鍛冶に何の関係があるのだ。 「……刀鍛冶?」 「治療は人体切開になります。現在、柴凛殿には工部屈指《くつし》の工匠官《こうしょうかん》とともに、人体切開のための特殊《レー′1し博》な小刀を設計していただいてます豆三日後にはその特殊小刀を二百本、一目で打っていただく必要があります。そのために、全商連の名刀匠のお力をお借りしたいのです」 「じー」 「人体切開!?」  先ほどの比ではないざわめきが起こった。   秀麗はまっすぐに真正面の壮年の男性だけを見ていた。 「人体切開でなければその病は完治しないとのことなのです。けれど茶州府は運良く、伝説の医仙と呼ばれるかの葉綜庚医師の雇用がかないました。朝廷の最高医師団の派遣《はけん》も決定しており、現在宮城にて葉医師によって人体切開医術の伝授が行われております」 「−そ、そ、それは本当でございますか!?」ひょろっとした老人が|椅子《いす》を蹴立《Hた》てて立ち上がった。 「あの�あの葉綜庚医師直伝で、人体切開術の伝授ですと!?」 「はい。つまり虎林郡に向かってくださる医師なら誰でも、葉医師の秘術と人体切開術が間近で拝見かつ会得《えとく》できます。会得していただかなくては困りますから」   老人はほじかれるように真正面の幹部を振り仰いだ。 「公孫様! わ、わ、私は今すぐ弟子《でし》たちを引き連れて宮城に向かいますぞ! なんと、これほどの機会が生涯で巡《しヰつがいめぐ》ってくるとは思わなんだ! 医薬管轄《わ−んかつ》部門の長として申し上げるなら即《そつ》刻《こノ\》この申し出を受けるべきです! 知識と技術は金に換えられるものではござらん!」  公孫と呼ばれた男は、なるほど、と微《かす》かに笑《え》んで秀麗を見た。   なかなか、おもしろい話の運び方をする。 「……知識と技術も、支払いのうち、とおっしゃるか」 「なんなら奮発して、もう一つとっておきのものを見せちゃおうじゃありませんか」   秀麗は一冊だけ失敬してきた医学書をついと差し出す。 「−華郷老師の血を引く、華眞というかたをご存じですか」   公孫が例の医薬管轄部門の長老に視線を送るまでもなく、その名を聞いた長老は目の色を変えて医学書の前にすっ飛んできた。   そのままポックリ逝《ゆ》くのが心配になりそうなほど血走った眼《まなこ》でぶるぶると医書を|凝視《ぎょうし》する。 「ま、ま、まさかそれは−か、か、華家の!」   長老が手を伸《の》ばす前に、さりげなく秀麗が取り上げる。 「ちょっとしたご緑《え人》がありまして、このほど、私個人が預かることとなりました。朝廷筆頭侍《じ》医《し》の陶老師に見ていただいたところ、万金にも優るとのお言葉をいただきました。難病・奇病《きぴよう》といわれる病の原因・予防、治療法、及《およ》び膨大《ぼうだい》な新薬調合法がこのなかに詰《つ》まっております」  一瞬《いつし紬ん》で、空気の色が変わった。  びりびりと、商人たちから青い火花が飛び散ったのが見えたような気がした。  秀麗は、表情を消して商人の顔になった公孫から目を離《はな》さなかった。 「−ちなみに、これは数十ある巻書のうちの、たった一冊にすぎません」  医薬管轄部門長老は泡《あわ》を吹《ふ》いて|倒《たお》れそうなほど赤くなったり青くなったりしていた。 「ズバリ訊《上J》きましょう。ほしくないですか、これ」  是《ぜ》か否かを突《 「》きつけることで、秀麗はのらくらと口先で逃《=》げる場を封《・パう》じた。公孫は慎重《しんらlトhう》に秀麗と巻書を見比べた。  欲しいといえばつけ込む|隙《すき》を与《あた》え、否といえば! 七彩夜光塗料《し⊥りよ・FJ》などよりも遥《ほろ》かに価値のある、新医術及び新薬製造法を逃《のが》すことになりかねない。 「…⊥父換《こ.つわ∵人》条件は、虎林郡への全商連系列医師派遣、と?」 「いいえ。虎林郡の奇病にはこの巻書がいくつか必要になります。行っていただけるお医者や薬師さんなら、必然的に垣間《かいな》見ることができるでしょう」 「……どういうことですか」 「今回の件に関して、この巻書は条件にはつけません。医師・薬師・鍼術師・刀匠《トJ、りしよ・フ》・薬草・調合済内服薬−必要と思われる諸経費は全部、公費で一括払《いつかつぼら》いしようじゃありませんか。葉医師及び朝廷最高医官たちの技術・知識のタダ見・授業料、あと団体雇用料で、ある程度値切り交渉させてほしいと思っていますけれど」   秀麗は大見得を切ってこいと告げた悠舜の笑みを思い返す。 「�私の副官は郵《てい》悠舜です。それぐらいの費用は戸《こ》部と朝廷からもぎとってきます。値切ったって、相当儲《もlつ》かりますよ? 茶州府から感謝状もつけちやおうじゃないですか」   ー確かに、近年稀《まれ》に見る大口顧客《こさやく》なのは間違いなかった。 「……ではその巻書を示した意図は〜」   秀麗は−気を落ち着けるように深く息を吸い込んだ後、巻書を軽く指ではじいた。 「中身に価値があるか否《いな》かを知りたければ、どうぞ虎林郡へ! ということです。ちゃんとそのぶんはお金払うんですから、別に損じゃないでしょう? もし、治療中にちらっと何冊かご覧になって、他《ほか》の巻書の中身も知りたい、新薬調合と新医術を知りたい−つと、お思いなら」  秀麗はどう言葉を繋《つな》ごうか迷って|黙《だま》り込んだのだが、それが偶然《ぐうぜん》うまく駆《か》け引きに作用した∩  医薬管轄部門長老はじりじりと公孫を睨《にら》み付け、とっとと訊けと目で威圧《いあつ》してくる。   知りたい、と言ったほうが負けだった。が−。   公孫は苦笑《くしょう》を漏《も》らし、こめかみを軽く探《も》んだ。まさか、この切羽詰《せつばつ》まったときに——。 「……少し、貴女《あなた》を見くびっていたようですね。−単刀直入にお伺いしましょう。その巻書一 「に我々が価値を認めた場合、中身との交換条件は、例の学舎設立に関しての資金繰《しきんぐ》りですね?」′相手のほうから口火を切ってくれたことに、秀麗は内心ポッとした。  −公孫には手に取るようにそれがわかったが、彼女が告げようとしていた事実に違いはない。  《一》この、極限の事態においても、彼女は恐《おそ》るべき冷静さを保っていた。取引に何もかも提示する  わけではなく、手持ちの札を最大限有効活用するべく吟味《ざ人ふ》し、見極《みさわ》めている。   目先だけにとらわれず、必死に『州牧』でありつづけようとしている。   弱みを見せれば、彼女だけでなく茶州府がつけ込まれることをよくわかっている。   だから、決して 「助けてください』とはいわない。  秀麗は、必死で影月と毎日話し合っていたことを思い出そうと、頭を回転させた。 「……たとえば」   公孫は、秀麗が冷静を装《よそお》いながら、|僅《わず》かに震《・い・J》えているのに気づいていた。   懸命《‥∵八竹.�》すぎて、本人も気づいていないかもしれなかった。 「学舎に、医学を学べる科目をつくるとして、工部から秘蔵の医官を講師として派遣してもらいます。年期制で、講師は朝廷《トリようてい》と学舎を数年単位で行き来します。つまり、その学舎に行けば、いつでも責陽最高水準の医術を学べる−」無理もない。誰もそばにいない今、彼女の細い肩《かた》にすべての責任がかかっている。   百戦錬磨《れんま》の公孫から見れば、つけいる隙はいくらでもあるといっていい。 「そのなかに、華眞医師から預かった、数十の巻書を、科目のなかにとりいれる。それをとっかかりに、学舎に集《つご》った医師や学生たちで新しい治療法や、新薬の調合法を考案・開発したりすることもあるでしょう。が、新薬に関しては、その大量生産及び流通を全商連優先権利、もしくは独占《ごくせん》権利として委譲《いじょう》−」  医薬管轄部門の長老が、ひらかれていく新しい|扉《とびら》を感じて、興奮に目を輝《かがや》かせる。 「とか。まあ、これは単なる一例です。勿論、資金が循環《じゅんかん》しないとそんなことは長く続けられませんから、開発権利料とかはある程度確保させていただくことになるでしょうけど。そっちもこっちも儲かるうえに、今まで絶望的だった患者《かんじゃ》さんの救命確率も高まります。とはいえ、興味ないとおっしゃるなら、全商連以外の商家にお話をもっていくことになるでしょうが」  最後のひと言に、長老が頭をかきむしるのを見て、公孫は|溜息《ためいき》をついた。……彼は商人というより医師側の人間なので、いいように掌《てのひら》で操られている。 「資金の回収と利益の循環、できそうに思えませんか?これは単に医学のことだけを例にしただけで、実際設立が可能になれば、土木・水利・農学等に|多岐《たき》同じことがいえます」  つけいる隙はいくらでもあるが、その話は的確で核心《かくしん》をとらえている。   公孫は覚えず頬《はお》をゆるめた。   その顔を見て、元気づけられた秀麗は手にした巻書を軽くふって見せた。 「あ、いま、ちょっと、心動かされましたね?」   公孫はくすくすと声に出して笑ってしまった。  … 「もしちょっとでも動かされたなら、もう一つの札を見せちゃおうじゃないですか」  〜 「おや」  ′ 「どうです?」    −うまい、と公孫は感心した。商人から是か否かをはっきり引き出すのは非常に難しいものなのに、是と言いたくなる運びをしてくる。  決断するために一つでも多くの情報を欲《はつ》する商人気質では、伏せている札を見せるという駆け引きはかなり魅力《みりょく》的だ。 (……ここで答えても不利にほならぬな……)   すかさずすべての可能性をはじきだし、一瞬でそう結論する。 「では、是と申し上げようか」 「はい。−もう一つの札はこれです」   秀麗は袷《あわせ》から書状を一輪《かん》、ついととりだした。 「次の茶州州牧に、現在黒州州牧でいらっしゃる擢塚《かいゆ》様が就任してくだきり、すべての案件を            TJ引き《.》継いでくださるというお約束を、署名入りで書いていただいたものです」訂っ|一拍《いっぱく》のち、くっと公孫は目を剥《む》いた。   室が、|驚《おどろ》きに揺《ゆ》れる。 「擢瑞……あの!?」 「そうです。どうぞ、文《ふみ》をご見聞ください。ご本人にお伺《うかが》いしてもかまいません」   文を受け取りながらも、この娘が《む寸め》こんなハッタリを使うわけがないこともわかっていた。   −実際のところ、任命は吏《ヽ/》部の一任である。志願がかなうことなどよほどでない限りあるわけもないが、擢玲なら話は別だ。実質的に朝廷二師と同格に位置し、他の大官相手とは一線を画する。先王が彼の茶州州牧就任要請《ようせい》を棄却《ききやく》しっづけたことは有名だが、その原因であった茶州の問題も解決の糸口をつかめた今、若い現王が擢州牧の要請を拒絶《きょぜつ》できるとは思えないし、  その理由もなくなった。むしろ、茶州の本格的な安定と復興に適任とも言える。   正直なところ、二人の新州牧が提示してきた案件は非常に興味をそそられる。しかし、いかんせん彼らには不安要素がありすぎた。州牧就任も能力や経験を買われたわけではなく、いわば浪《ろう》燕青と郵悠舜が矢面《やおもて》に立たずにその力を発揮できるよう、隠《カく》れ蓑《みの》として利用されただけだ。  事実、茶家はどう考えてもより|厄介《やっかい》な浪燕青と鄭悠舜を捨て置き、州牧の肩書《かたが》きにつられて三人の新州牧に的を絞《しぼ》った結果、副官二人の罠《わな》にかかって一網打尽《いちもうだじん》にされた。   同試に及第《さ紬∴ノだい》したばかりの州牧たちなど、全商連が対等に商談を結ぶべき相手には到底《とうてい》なり得ない。案件も茶州府の能吏《のうり》たちが煮詰《につ》め、浪燕青と郵悠舜の補佐《ほき》があったからこそ、なんとかここまで形になったのだ。とはいえ、大黒柱である郵悠舜は遅《おそ》かれ早かれ中央に戻《もど》るだろうし、新米州牧二人も役目を終えた今、いつ解任されてもおかしくない。   この長期的な案件が立ち上がるのは、どう考えても次《ヽ》の《ヽ》州《ヽ》牧《ヽ》の《ヽ》話《ヽ》になる。   いくらよく煮詰めてきても、札を集めてきても、次の州牧次第《しだい》では簡単にご破算になる。   だからこそ、公孫は興味を示してもいい段階でもはっきりと回答しなかった。今の州牧たちと会うことに益もないと判断した。   話は聞いた。はっきりと断らなかったことで、脈は残した。動くかどうかは次の吏部の選定次第だ。現況《げんきょう》において、お互いにするべき仕事は終わった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》と思っていたが−。 「確かに、樺瑞様の筆《て》蹟……」   かの樺州牧が引き継いだとあれば、他の誰《だれ》も頓挫《とんぎ》させることはできない。    −彼女は、最後の札さえもそろえてきた。   目の前に、|蜃気楼《しんき ろう》だった道が、形をもってあざやかにひらかれる。  道ができたなら、進める。今は何もないその先に、金の都だって打ち立ててみせる。   商人だけが知っている、困難とそのぶんの見返り。ぞくぞくするようなあの興奮−。 「だいぶ、心動かされましたね?札を出したかいがありました」   笑い出した公孫に、秀麗もにこっと笑った。 「擢喩様なら、新米州牧二人と違《ちが》って安心でしょう?」 「ええ」 「いやーもうはっきりおっしゃいますね! 事実ですけど……。ちなみに、茶家ご当主様からも一筆預かってます。これと併《あわ》せて、どうぞご検討ください」  少女がここまでする理由は、そう長く州牧位にいられないことを知っているからだ。 「−虎林郡にて、首を、おかけになるつもりですか」   切り込むような問いに、秀席は驚くと同時に舌を巻いた。……まったく、何も言っていないのに言葉や態度から次々と看破されていく。全然かなわない。 「……まあ、どうせ遅かれ早かれって感じでしたし。どうせいつか首になるなら、充分出汁《じゆうぶんだし》をとらないともったいないというか。それに−」そのとき、室に育ちの良さそうな少年がおっかなびっくり顔を見せた。 「あの、すみませんお話中に。公孫様と、茶州州牧様にそれぞれお文が届いてるんですけど……その、至急ということでしたので−」   公孫は|眉《まゆ》を上げると、文をもってこさせた。封蟻《ふうろう》の鷹《たか》の紋《もん》に軽く日を睦る。   同様に秀麗も受け取り、中を見る。    ややあって、公孫が苦笑《くしよヽリ》を漏《・も》らした。    「……柴彰から、大至急薬をあるだけ届けろと、えらい剣幕《けんまく》で文が届きましたよ。鷹匠《たかじょう》まで使  って文を飛ばすとは……よほどのことらしい」   「こちらも」  秀麗はひらっと届いた文を泳がせた。なぜか二通ある。    「鄭補佐《ほさ》からです。この件に関する特別経費、ものすごい額が落ちました。それと−」    秀麗は会心の笑《え》みを|浮《う》かべてみせた。    「もし、.全商連がぐずぐずしているなら、無《ヽ》償《ヽ》で《ヽ》即《ヽ》刻《ヽ》働《ヽ》け《ヽ》と《ヽ》の《ヽ》陛《ヽ》下《ヽ》の《ヽ》御《ヽ》璽《ヽ》勅《ヽ》書《ヽ》つきで」    −沈黙《ちんもく》のち、誰もが|一斉《いっせい》に秀麗に視線を向けた。   |緊急《きんきゅう》事態なのに、なぜ秀伴がわざと学舎の話をしたか、全員が察した。  脱 「……あなたは、これを待っていたのか……」  抽 「庸凋班�嘉欝捏締抗は招鍔冒浣溌鐙ちゃんと177正規のお金、支払《しはら》いますよ? そのぶん、色つけてもらえたらとっても嬉《うれ》しいです。それとも、人道精神と奉仕《はうし》の心を発揮して、無償で働いてくださいますかフ」    ーやられた、と全員が|凍《こお》り付いた。   そのうち誰かが笑い出すと、それを皮切りになぜか大爆笑が《だいば! 、しょう》おこった。 (な、なんで笑われてんの私……)  良い感じに決まったと思ったのに、何か大失敗したかと、秀麗はだらだら冷や|汗《あせ》をかいた。 「くく、お嬢《‥しよ・リ》ちゃんにやられたわい」 「おい公孫、もらえるうちにもらえるモンもらっといて、とっととやろうや」 「ただ働きするくらいなら、色つけるほうがなんばかマシですよ〜。やる気出ませんよぅ」 「わしゃあもう一拍でもこんなとこにゃあいられん! 宮城に行って人体切開じゃあ!」   医薬管轄《カ、人かつ》部門の長老がついに興奮を大爆発させて、若者顔負けで室を飛び出していった。 「−わかりました」   公孫ははっきりと、秀麗にそう告げた。 「医師・薬師・鍼《はり》師・刀匠《とうしょう》・薬その他、ご依《お》頼《メ.》の件、すべて引き受けましょう。全商連認定《にんてい》の、朝廷《ちょうてい》最高医官にも負けぬ責陽在住名医を即刻選《え》りすぐって宮城へ送ります。出立は四口後とのこと−その勅書を見なかったことにしていただけるかわりに、色づけの一つとして、虎林郡まで半月かからすに送って差し上げることをお約束しましょう」秀麗は想像以上の�色づけ″に目を丸くした。  茶州虎林郡まで、どう頑張《がんば》ってもひと月かかると|覚悟《かくご 》していた。それがー半月!? 「朝廷との協力次第では|充分《じゅうぶん》可能ですよ。お役人と違って、商人は何事も|迅速《じんそく》に、が信条ですからね。いろいろと方法はございます」   こうしている今も病が進行する今、それは最高の『色』だった。 「細かい打ち合わせと交渉《こうしよ、lリ》は宮城で行いましょう。すぐに人を送ります。あなたも、お城ですべきことがたくさんあるでしょう。お帰りになって結構ですよ。−心配ありません」  公孫はにやっと笑った。 「全商連は、たとえ口頭でも一度契約《けいやノ、》を結んだ相手には、お客様のご満足と自身の信用を守るため、最善を《つ》尽くします。せっかく、柴姉弟が茶州の地ならしに尽力《じ人りよ! 、》したことですし。必ずやご期待にお応《こた》えすると、お約束しましょう」 「よろしくお願いします」  秀魔は深々と頭を下げた。   そしてその足で、再び登城に駆《・乃》ける。  『緊急朝議が招集されました。全《ヽ》商《ヽ》連《ヽ》説《ヽ》得《ヽ》の《ヽ》ち《ヽ》、お戻りください』  ノバ  《ノ》ギリギリまでおさえるとの悠舜の文に感謝しながら、秀麗は最後の大仕事に向かった。  タ,  ヽ  1  胃二.…ふ骨患聞骨胤日日最 「越権行為《えつけんこうい》すぎる! あまりにも勝手ではありませんか!?」 「朝議に一度もかけずに独断でここまで動かれるとは−」 「朝廷機能をどう思っておられるのか!」   秀麗が到着《しゅうれいとーフちゃく》すると、すでに議論は始まっていた。議論というより、ずらりと並んだ高官たちは口々に口角泡《こうかくあわ》を飛ばして悠舜に怒涛《抽うしゅんlどとう》の批難を浴びせているだけで、秀巌が入ってきたことにも気づかないようだった。  秀麗は真っ先に|椅子《いす》に座っている悠舜に駆け寄った。 「悠舜さん、ありがとうございました。�終わりました」  悠舜は、満面の笑みを浮かべて秀麗の両手を|握《にぎ》りしめた。 「よく、頑張られました。副官として、あなたを誇《ほこ》りに思います」 「……こんな|状況《じょうきょう》なのに、結構のんきですね」 「おや、私などまだまだですよ。燕青《えんせい》だったら|爆睡《ばくすい》しているところでしょう」   秀席の姿を見ると、周りから更なる怒号《ごごう》が飛んできた。 「悠舜さん、あとは私が。悠舜さんほここを出て全商連のかたと細かい点を煮詰めてーL 「いいえ」   とん、と秀麿の手を|優《やさ》しく叩《たた》く。 「私は、あなたの補佐です。おそばにおります。この室《へや》をでるときは、二人|一緒《いっしょ》です」   秀麗は喉《のご》を上下させた。   どんなときも、誰かがそばにいてくれる自分は、本当に幸せだと思う。 「州牧はあなたです。あなたがいらっしゃった以上、発言権はお|譲《ゆず》りいたします」 「はい」 「私たちを待っているかたを思えば、こんなものは正念場でもなんでもありません」   とん、ともう一度、微《かす》かに震《ふる》える秀贋の手を優しく叩く。 「言うだけ言って、とっとと帰りましょう。! 私たちほ、官吏です」   秀麗は泣き笑いのような顔をした。 「……はい……!」  …きゅっと目を閉じー�真正面を振《ヽ.’》り仰いだ。そして深く息を吸いこむ。  ハ《1》 「−茶州州牧紅秀麗、お召《め》しによりただいま参りました」  ノ   《 《ー》》凍《——ん》と通った声音《こわね》に、ざわめきがやや小さくなった。秀麗ほその際を逃《のが》さなかった。 「ぜひともご質問は簡潔にお願いいたします。四日後の茶州《さしゅう》出立に向け、するべきことが山ほど残っていますので。苦情の類《たぐい》はあとでまとめて茶州府宛《あて》に送ってください」  そう言い放つと、秀麗はおもむろに悠舜の隣で脆拝《となりきはい》の礼をとった。   真正面に座する劉輝《りゆうき》は、それまでひと言も発さなかった。 「主上におかれましては、このたび直々にご尽力をいただき、心から感謝申し上げます」 「……全商連は動いたか、紅《こ∴ノ》州牧?」 「ほい。全面協力を取り付けました。四日のち、発《た》ちます。これをもって、私と鄭《てい》悠舜の出立のご|挨拶《あいさつ》にかえさせていただきたく存じます」  そのままとっとと出て行きそうなテキバキとした回答に、我に返った官吏の一人が慌《あわ》てて声を上げた。 「ま、待ちなさい!」   つ、と悠舜がその官吏に顔を向けた。 「敬意ある言葉と態度で臨《のぞ》んでください。彼女は三品位にある一州の州牧です」 「こんなめちゃくちゃな州牧があるか!」 「そうだ! たった一口で−我々の与《あずか》り知らぬところでここまで勝手なことをしおって!」 「ほとんど事後承諾、《しようだ′\》しかも口八丁でもぎとりおって! 朝廷をなんだと思っておる!」 「——民革《たみくさ》を助けるところだと思ってましたけど、なんか違《ちが》いましたか」  ここにきて、秀麗の肝《きも》は|完璧《かんぺき》に据《す》わった。 「そのほかの答えがあるならぜひ聞かせてください。朝廷はどういう場所なんですか」                               .ノ   答えに《′》詰まった官吏たちを、秀麗は見回した。 「ここにお集まりになってるかたは、いま茶州で何が起こってるかもちろん知ってらっしゃるんですよね?ちんたら手順踏《ふ》んでる|暇《ひま》がないと判断したのでスッ飛ばしただけですが、事後承諾でも何でもとるべく許可はとってるはずです。何か問題ありますか」 「そ、そう簡単にスッ飛ばせるものではない!」 「そうだ! だいたいこんなむちゃくちゃなー」 「そうです。むちゃくちゃですよ。そんなこと充分わかってます」  秀鹿は堂々と胸を張った。 「通常手段で認可《にんか》・議論にかけたとして、すべての許可がおり、準備が残らず整うのほいつになりますか? 十R後? 半月後ですか?それでようやく茶州に行くわけですよね? 到着までに早くてふた月ですね。お医者連れて行っても患者《かんじゃ》さんいるわけないでしょう。たくさんできてるお墓の前で、私たちはいったいなんて申し開きすればいいんです? |普通《ふ つう》の手段で手《て》一|遅《おく》れなら、むちゃくちゃな手段とるしかないじゃないですか」−《.》 「だからって何をしても良い理由にほなら�杜 「そうだ、だいたい生死などはたいがい運次第−」 「運! 運ですか。そうですね、あるでしょうね」  《一》秀麗は怒《いか》りを突《つ》き抜《ぬ》けたせいで、かなり投げやりかつ適当な相づちを打った。 「じゃ、あなたは自分のお子さんが現在虎林《こりん》郡で生死の境を彷担《さまよ》っていても、運だから仕方ないとおっしゃるわけですね〜きちんと州牧が手順にのっとって、ちまちま地道に許可とって、お医者派遣《はけん》したら手遅れで亡《な》くなってました、それでも運だと|納得《なっとく》するわけですね? もう少しくるのが早かったら! 絶対そんな|後悔《こうかい》はしないとおっしゃるんですね? L 「も、もちろー」 「……ふむ。それでいけば、余の子供が同じ状況に陥《おらい》ったときもそうなるわけだな」劉輝の言葉に、遠山といった官吏はぎょっと蒼計《そうはく》になった。 「まさかそんな! あらゆる手段を講じて即刻《そつこく》お助けに参りー」   さすがに自らの言葉の意味に気づき、つづきを飲み込む。 「同じことが民に許されないのはなぜですか?」   秀鹿は静かに訊《ヽ」》いた。 「命よりも手続きを優先させて、その結果『運が悪い』だけで切り捨てられる存在ですか?」   魯尚書《ろしようしょ》や景侍郎が、ゆっくりと瞑目《め∴∵もく》してその言葉に耳を傾《かたむ》ける。 「私は、後悔します。もし……自分の子供がいま虎林郡にいて、病にかかっていたなら、どんな手段を使ってでも助けてやりたいと思います。助けられなかったら世界の終わりみたいに泣きますよ。上にいると、人の顔は見えなくて、誰《だれ》でも同じように見えるかもしれませんけど。その一人一人は、誰かにとって、かけがえのない存在なんです」  管《かん》尚書と欧陽《おうよう》侍即が、領《うなず》くように少しだけ首を傾ける。 「年貢《ねんぐ》がちゃんと規定どおり納まってるなら、納める相手の顔が変わっても構いませんか? どんなに人が死んでも、どこかでまた生まれてくると思っていませんか? 民章は替《か》えのきく存在だと心のどこかで思っていませんか。遠い地で喪《lフしな》われていく命にすがりついて泣く人がいることを、忘れてはいませんか。・1私たち官吏が、守るべきものは『誰』ですか?」  紅尚書と黄《−七つ》尚書が、じっと秀麗を見る。   彼女はもう、一年前の少女ではなかった。 「個人がどう頑張《がんば》ってもできないことはあります。でも、今の私には『力Lがあります。工部尚書のお力をお借りして、全商連の説得もできて、腕《うで》の良いお医者と薬をあるだけかき集めてl四日後には茶州に飛んで、半月後には虎林郡に到着して|治療《ちりょう》を開始口一年前の、ただの『紅秀麗』にはできなかったことです。官位を頂かなくてはできなかったことです。その力を、使える者が使わなくてどうするんですか?この掌《てのひら》に、助けられる力があるのに」  締牧《こうゆう》と楸瑛《しゅうえい》は、二年前を思い出した。  『|庶民《しょみん》がいくら頑張ってもできないことも絶対あるのよ。それが《ヽ1ヽ》、王様のお仕事でしょう? ノ《T》王様だからできることなのに、王様がサボったら誰がやるっていうの?』の政事を顧《まつりごとかえり》みない劉輝に、桜の下で秀麗が語った言葉。  /彼女も、今またその力を手に入れて、あのときの言葉を迷わず実行に移したのだ。  一++1−できることがあるのに、しないことは罪だと。   《・》最善を尽《つ》くせば、助けられるものがあるのに、手を抜いてどうする。 「むちゃくちゃやって一人でも多く救えるなら安いもんじゃないですか。無理難題押しっけられた皆《みな》さんがちょっと苦労するだけですよ。あとでお礼状をきちんと出します。−私ほ悟《さと》っ                                                  l、ノ_てないので、全力《′》尺、くさす運に任せて、お墓の前で『運が悪かったね』なんて死んでも言えません。むちゃくちゃでも、できることがあるならやるだけやりますよ。使える力があったらとことん使います。はっきりいって今のところ悟りひらくつもりは全然ありません」  擢《カし》州牧が、整った貌《かお》にゆっくりと|微笑《ほほえ》みを刻む。   一人生の終わりで、彼女のような官吏と出会えたことを、嬉《うれ》しく思う。   この国は、まだやっていける。 「官吏になれたことを嬉しく思います。その−力で誰かを助けられたら、今度はきっと、官吏であることを誇《はこ》りに思えます。そういう官吏でありたいと思います」  秀麗はまっすぐに玉座の主を見上げた。 「『官吏とはなんのために存在するのか』−いつでもそれを自問しろというのが、進上の時、あるかたから送られた言葉です。私の答えは決まっています」  魯尚書は、任命式を思い出した。   そして、どこに飛ばされても、自分のすることは変わらないと告げた秀麗を。   劉輝の眼差《まなぎ》しに、秀麗はあざやかに笑った。   誰のために在るのかー答えは言わない。   無茶を通しても構わない。躊躇《ためら》いもしない。自分は守るべき者をもつー、    「私は、官吏なんです」   劉輝は笑えなかった。    「……どうしても、茶州に戻《もど》るつもりか? L  秀麗は深く頭《こうべ》を垂れた。   「もちろんです」   その会話に、官吏の一人が反応した。 「そ、そう美! 聞けばお前のせいで病が広がったというではないか⊥   「その�邪仙教″《じやせ人きよ∴ノ》とやらも的を射とる。州牧就任直後にこんなことが起こりよるとほ−」    「やはり女なぞ神聖な政事の場に足を踏み入れるべきではなかったのじゃ!」    「自分が原因でことを起こしておいて、何をえらそうに!」    「即刻官位剥奪《はくだつ》どころか退官にすべきです!」  朋 「もう一人の子供もどこかへ逃《−し》げ出したとかなんとか−」  1                        けん  ゆか               ひげ一  ∵鮮い縞腑絹紹錆唇甥誓。  ll  その一瞬《いつしゅ人》の王の表情《⊥りお》を垣間《かいま》見た年嵩《としカさ》の官吏たちは、ぎくりと顔色を変えた。   《�.1》(先、王陛下……つ!?)  殺気にも似た冷厳なる訝気《よさ》に、思わず|膝《ひざ》をつきそうになったのは一人や二人ではなかった。   笛《しょう》大師と宋太博《そうたいふ》は息を呑《の》んだ。−一瞬、過去に舞《ま》い戻ったような気が、した。   劉輝は瞑目して気を落ち着けようと努力した。 「……そういう報告が記してあったな。それでも、戻るか」 「はい」 「いたずらに|刺激《し げき》することになってもか」   そんな言い方しか、劉輝はできなかった。危険だから行くなと、言えなかった。   秀麗のせいで病が広がっているという|噂《うわさ》は、今や迷信深い山間部ではほとんど『真実』となっているはずだった。そこに秀麗自身が乗り込めばどうなるか、火を見るより明らかだ。   人は、誰かのために|優《やさ》しくなれる一方で、自分のためにどこまでも残酷《ぎんこ′\》になれる。   たった一口で、ここまでの手はずを整えたことなど念頭にも上らず、|到着《とうちゃく》した秀麗を血祭りに上げてしまえるほどに。   それでも、劉輝は彼女の答えを知っていた。 「ー私が行かなくてどうするんです」   秀麗は、迷わずその通りの言葉を言い放った。 「私は茶州の州牧なんです。私のせいというなら、なおさら私自身が行かなくては。私が戻れば病が起こるというなら考えますが、とっくに病は広がってるんです。ならどこにいようが同じことです。事態収束のために吟を広げた当人とキッチリ話をつける必要があります。私のせいだというその|根拠《こんきょ》が明確になったなら、とるべき対処をとりましょう。根も薬もない話だったらしょっびくだけです。どちらも、州牧たる私の役目です。違《ちが》いますか」静かな声が、その場を打つ。 「杜《と》州牧は|被害《ひ がい》を最小限に抑《おさ》えるために自ら虎林郡に飛びました。彼の書翰《しよかん》により、いち早く病の治療法が見つかりました。私が茶州に戻るのは、どんな不測の事態が起きても、病を収束できるすべての対応が整ったと判断したからです。そのために無茶も適しました。病に対する対応は万全《.∴人げ人》です。あとは�邪仙教″に対する処置を現地で講じるのみです」                                       子−1−〕:†ー L悠舜は小さな体で精一杯《1▼し..,......−》《t》茶州と悠舜を守ろうとしてくれる少女に、心が熱くなる。  さただ焦《あせ》って飛んで帰るわけではない。司徴として、秀麗も悠舜も打つべき手を打った。  病が秀麗のせいだというのなら、そんな論を木《−》っ端微塵《はみじん》にする算段を整えて。  自分のせいだといわれて、傷つかなかったわけがない。けれど、彼女は目の前の現実を優先した。官吏としての役目と自負で駆《か》け回りつ、づけた。……副官であることを、誇りに思う。 「私と杜州牧は半人前です。二人合わせて州牧なんです。彼は今、たった一人でするべきことをしてます。茶州府官吏の誰もが、事態の収束に向けて駆け回ってます。一いま、このとき、もう一人の茶州州牧である私に、茶州以外のどこで何をしてろとおっしゃるんですか。誰が何と言おうと、拝命した官位にかけて、この�花″にかけて、帰らせていただきますー!」|漆黒《しっこく》の髪《かみ》がほどけて背中に流れ落ちる。  抜《ぬ》き去った花轡《はなかんぎし》の�蕾″《っぼみ》の意味は、�無限の可能性と未来�   それを贈《おく》ったのは、他《はか》ならぬ劉輝自身。   劉輝は瞑目し、拳を握《二ぶしにぎ》りしめた。掌に、じわりと|汗《あせ》がにじむ。 「……そなたのせいだと判明したら、とるべき対処をとる、と言ったな」 「当然です。とりあえず�邪仙教″とやらのところに乗り込まなくては話になりません」   縁故と楸瑛はその言葉の意味を察して息を呑んだ。   意味不明な教義を振りかざし、生贄《い!?にえ》などと言っているところとまともな話し合いなどできるわけがない。秀麗を狙《ねら》い打ちにしているような噂をばらまいているなら、なおさら�。   命そのものが危《あや》うい。 「そなたは、州牧だ。その責務はどうする」 「それも考えております。ご心配なく、州牧としての責務は果たします」   何を言っても、鐘《かね》を打つように返される。   劉輝は震《ふる》える心を抑《おさ》え、ゆっくりと息を吸おうと努力した。秀麗は退《ひ》かない。ならば−。 「……平定の兆《きぎ》しを見せていた茶州を、いたずらに混乱する輩《やから》は見過ごせぬ。勅命《ちよくめい》をもって、川《」》軍を、派遣《ほ〓∵ん》する」∵…《ちんもく》溌娠賢広間が揺《ゆ》れた。  … 「接脚刊伐《とうばつ》、ということは」    「勅伐−!」   楸瑛の目が|輝《かがや》く。           「ノ  沸《.Jl》きたった広間に、一人秀麗はカッと目を見開いた。 「お待ちください!!」   初めて秀麗は声を荒《あら》げた。   そのすさまじい剣幕《け人まく》に、しんと静まり返る。  秀麗は沓《ノ、つ》を鳴らして一歩王のもとに進み出た。まっすぐに劉輝を見《み√》替える。 「州牧として、禁軍勅伐は断固|拒否《きょひ 》します!!」   ざわめく声は、秀麗の耳には入らない。 「なんのために、杜州牧と浪州ヂ及《ろうしゅういんおよ》び虎林郡太守が今まで州軍の派遣を見合わせていたとお思いですか!?.�邪仙教″に行けば発病しないなどと言って連れて行かれた人が大勢おります。軍を引き連れて山に乗り込めはーいいえ、討伐Lに虎林郡に入ってきたことが知られれば、�邪仙教″とやらがどんな行動に移るかは一目瞭然《いちもくりようぜん》ではありませんか!」   ぐっと、劉輝は言葉に詰《つ》まった。 「軍を派遣すれば、強引《ごういん》でも�邪仙教″の問題は解決しましょう。けれどどれほどの人の命が失われますか!?病の蔓延《まんえん》ですでにポロポロに傷ついている民《たみ》の心と命を、なお軍馬で踏《・わ》みにじることを、州牧として許すわけにはいきません!!」抑えた表情の裏で、劉輝が泣きそうになっているのを秀麗は知っていた。   けれど、退くわけにはいかない。   自分は、官吏なのだ。    「私自身が乗り込むと申し上げたのも、�邪仙教″を刺激しないためです。私を『とらえて』『生け蟄《にえ》』にすると言っているからには、少なくとも一度は私との|接触《せっしょく》を望んでいるはずです」 『千夜《せんや》』という名の、教祖。   ……茶朔洵《ささ! 、じゅん》本人であるにせよ、違うにせよ、あの名を騙《かた》ったのは偶然《ぐうぜん》とは思えない。   この一件の裏には、秀腱に用がある『誰《だれ》か』が、いるのだ。    「まずは病の早急なる収束が先決ですが、そのあと慎重《しんちょう》かつ|迅速《じんそく》に�邪仙教″に対する算段をたてます。人命最優先で、ことの決着をはかる手を打ってみせます。軍《ヽ》も《ヽ》武《ヽ》官《ヽ》も《ヽ》い《ヽ》り《ヽ》ま《ヽ》せ《ヽ》ん《ヽ》。あらゆる|状況《じょうきょう》において、武力は事態の解決手段に用いるべきではありません。いかに武力《それ》を使わずに民を守れるかが、文官として在る者の誇《ほこ》りであり、為《な》すべきことではありませんか!」  樺州牧が、くっと涼《すず》やかな目元を興奮に染める。   言葉が、波紋《はもん》のように広がる。   縁故は目を閉じた。−彼女が在るべき理想の姿が、今ここに描《えが》かれた。  り 「チャンバラごっこじゃないんです。禁軍とか勅伐とか、男の人にはカッコ良く聞こえるかも脚しれませんけど、女から見れば十歳児とやってること変わらないうえに、どったんばったんモ仇ノ壊すし、畑から大根盗んでくLで、全っっ然カッコよかないです。剣より鍬もって畑耕して《くわ》《ぬす》《こわ》…ご飯のおかずが増えるほうがよっぽどマシだと思いませんか。家計の足しにもなりますし」   《 》ズバッと一刀両断されて、楸瑛をはじめとする武官は言葉もなかった。 「なので、禁軍の方々には畑でも耕してもらっててください。冬とはいえ、時々掛《ま》り返しておかないと春に良い土になりませんからね。腰《∴−し》にく《ヽ》る《ヽ》んで気をつけてくださいね」秀麗は劉輝を見つめた。 「勿論《もらろん》、何の算段もなく乗り込むようなことはしません。しよっびくときにはある程度州軍の力を借りることになるでしょう。それでも、最小限の被害に留《とご》めるための努力をしたいんです。そのために、禁軍ではなく、別のことでお力をお貸しいただければと思います」  ぴくりと、劉輝はわずかに顔を上げた。 「……申してみよし且. 「私は郵州事《しゅういん》とは別に医師団とともに直接虎林郡に向かいます。郵州封正は茶州府を支えてもらうために、州府・墟壇《こわん》城へ。その護衛として正《し》武官及び州境まで紫州《しLゆう》軍の派遣を願います」           わで   ごうも′\劉輝は僅かに蛙目した。 「……そなたの護衛ではなくか?」 「州府を統括《とうかlつ》していただく鄭州ヂのほうを優先的に護衛すべきです。第一、州将軍をも上回る権限をもつ正武官の虎林部入りは、州軍入りと同じことです。�邪仙教″を刺激する恐《おそ》れがある以上、徹底《て 「てい》的に私の周りから武官は排除《はいじょ》します。とはいえ、それでは道中賊《ぞく》に|襲《おそ》われたら体力皆無《かいむ》の医師団じゃひとたまりもないので、即刻《そつこ′\》墟埴城へ文《ふみ》を飛ばしてください。全商連で気づいたんですが、墟埴城にも鷹匠が《たかじょう》いました。あれは早文のためですねフ」 「ああ。狼煙《・のろし》と同様、戦時用での手段だ」 「では城の鵬をお貸しください。浪燕背に、即刻《そつこく》茶州との州境にくるよう要請します。彼は全然そう見えなくとも一応ちゃんとした文官ですし、それでいて武官以上の腕《うで》をもっています。今回の護衛にはうってつけです。私と浪州事で虎林郡へ駆け、事態の打開に当たります」   秀麗の言葉を受けて、悠舜がついと顔を上げた。    「浪州事の護衛を|突破《とっぱ 》できる者などおりません。また、その柔軟《じゆうなん》な思考と広範《こ∴ノはん》な視野は時に私をも凌《しの》ぎます。虎林郡太守も冷静で思慮《しりよ》深く、信頼《しんらい》に足る官吏です。すべてを《つ》尽くして紅州牧の補《ま》佐《ヽ,》に当たりましょう。どうか信頼し、お任せください」  劉輝は眼差《まなぎ》しを伏《・説》せた。   浪燕青の腕はわかっている。けれど、秀鹿の相手は、いま彼女が守ろうとしている『民』になるかもしれないのだ。危険性は変わらない。必要とあらは、秀麗はその首さえ差し出そう。  『私のせいだというその|根拠《こんきょ》が明確になったなら、とるべき対処をとりましょうし         げんきよう               1ヽ111ヽ1ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ、   病の元凶である秀麗を、生け贄に捧げなくては病は収束しないという流言。   もしその噂が《うわき》真実だったなら、秀麗は−すでにその|覚悟《かくご 》をもしている気がして。  J  静蘭《せいらん》を遠ざけたのは、彼ではいざというとき、秀麗を生け贄にすることができないから《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。  ………そう、思ってしまうのは、うがちすぎだろうか。   《ノ》(いや)   さそ《ヽ》の《ヽ》可《ヽ》能《ヽ》性《ヽ》が《ヽ》あ《ヽ》る《ヽ》か《ヽ》ら《ヽ》こ《ヽ》そ《ヽ》、無理矢理にでも片を付けようと思ったのに。  (余は……王、だ)  歯を食いしばる。渦巻《うずま》く想《おも》いを静かにのみこむ。  王《ヽ》の《ヽ》答《ヽ》え《ヽ》は、一つしかなかった。 「……わかった。軍は、出きぬ」  たったそれだけを告げるのに、どれだけの力を要したことか。 「行って、為《な》すべきことを、せよ。そなたらが、茶州の司牧だ」 「御意《ぎよい》」  秀麗は|膝《ひざ》をつき、|完璧《かんぺき》な脆拝《きはい》の礼をとった。  うつむいたその下の表情がどんなものであるか、劉輝からほ見えない。  それが、上と官吏の|距離《きょり 》だった。         t�養子凍も   ー三日後。  邵可《しようか》は、府庫《ふこ》にふらふらとやってきた娘《むすめ》に気づくと、すぐに手を引いて|椅子《いす》に座らせた。 「……終、わったわ父輝…‥準備、完了《かんりょう》……」  パタリと草子に突《つ》っ伏《・J》した秀麗に、さすがの邵可も今回ばかりは笑えなかった。 「……出立は明日の朝かい〜」 「うん……」   それきり|黙《だま》ってしまった娘を、邵可は抱《だ》き上げて膝にのせた。   くしゃくしゃに顔をゆがめて、秀麗は泣いていた。   邵可は秀麗を抱きしめて、子供のようにその背をゆっくりと撫《な》でた。   秀麗は声なく泣いた。必死で歯を食いしばって、父の首にかじりつく。    「わ、わ…たしのせいだったらど、うしよう」 「そんなことは絶対ない」 「ひ、一人にしちゃったら、ごめ…んね父様……」 「|大丈夫《だいじょうぶ》、君は無事に帰ってくるよ」 「いつも、私、父様に、心配ばっ…かり」    「してるよ。いつでも心配してる。だから帰っておいで」   すべての緊張が《きんちよ、つ》とけ、あふれるように心を吐露《とろ》する秀麗を抱きしめる。 「私だけじゃないよ。たくさんの人が、君を心配してる。帰っておいで」   府庫の周りで、そっと窺《うかが》うようないくつもの気配がする。  ノ 「行くなと言って行かないでくれるなら、いくらでも言うんだけれどね」  … 「だめ、もう咳吋《たんか》きっちゃったもん。それに……」   《′》小さくしゃっくりを繰《く》り返しながら、秀麗は茶州を思った。 「燕青と……影月《えいげつ》くんが頑張《がんぼ》ってるの。待ってる人がいるの。行かなきゃ」 「こういうときくらい『行きたくない』って言っていいんだよ」 「だめ……それだけは絶対言えない……」  邵可は|溜息《ためいき》をついた。この頑固《がんこ》さは妻|譲《ゆず》りとしか思えない。 「……秀鰯、一つだけ約束してくれるかい」  しゃくりあげる娘が、眠りやすいように髪《かみ》をほどいていく。 「一人でなんでもしようとしないこと。怒《おこ》ることも泣くことも、誰かのそばでするんだよ。そうしたらきっと、燕青くんが君を助けてくれる。静蘭だと二人して深刻になりそうだけど、彼ならどんなときも笑ってくれるだろう。それはとても難しくて、とても大事なことだよ」 「うん、知ってる……」何もかも笑い飛ばせる燕青のような強さがあったら、今こうして、情けないくらい不安になったり自己|嫌悪《けんお 》に陥イ《おち�》たり、弱音を吐《ま》いてぽたぽた泣いたりしないのに。  たくさんの人が、虎林郡で亡《な》くなった。もし本当に——ー� 「君の速いじゃないよ」  邵可は、まるで心を読んだかのように、何度もそう囁《ささや》いた。  |優《やさ》しい言葉に、秀麗はただ涙《なみだ》を流した。  泣けば泣くほど頭が混乱してきて、色々な言葉や人や声が癌の中を際限なくめぐる。思考が堂々巡《ごうごうめぐ》りして、自分が何を言っているのかもわからないままに言葉がこぼれていく。慰《なぐさ》めてくれる父にすがりつき、いつしかー意識は白い闇《やみ》に沈《しず》んで、束《つか》の間の眠りに落ちていく。 「……ごめんね、父様、静蘭……」   最後に無意識のまま、そうこぼして。   心身ともに疲労《!?lろう》の極致《ヽゝよlくち》にありつづけ、いまようやく安心して赤子のように泣きながら眠った娘の背を、邵可はあやすように軽く叩《たた》いた。   頬《;まお》をぬらす涙の痕《あと》をぬぐってやると、いっそう赤く熱を帯びて痛々しい。    「旦那《だんな》様……l   「ああ、ありがとう、静蘭」   静蘭から毛布を受け取ると、器用に秀麗をくるみ込む。    「……今回は、君もつらいね、静蘭」    「いえ……」   静蘭は静かに目を閉じた。    「お嬢様《じ上lうさま》の打たれた手が、確かに最善ですから。燕青なら、任せられます。悔《/ヽや》しいですが」 「おや、君だと深刻になるっていったのを気にしてるかい?」    「……別に……」  り  《 「》他《ほか》の相手ならさらりと流すが、静蘭も邵可にだけは|嘘《うそ》がつけなかった。一、 「それもまた君の良さだよ。もし私が拾ったのが燕青くんで、うちの家人になってたら、多分エフ頃とっくに邸も何もかも売。払って、みんなで山で生活してたんじゃないかなぁ。燕青くん《は・リ》《やしき》《いまごろ》l′Jなら山でも私と秀麗を養ってくれそうだけど」   《 》容易に想像できてしまい、静蘭は思わず吹き出した。 「でしょうね。燕青なら猪《いのしし》でも熊《くま》でも生け捕《ど》って丸焼きにして塩ふってくれますよ、きっと」 「でもずっと|一緒《いっしょ》にいて、私と秀麗を支えてくれたのは君だよ」  邵可は静蘭の手をとり、にっこりと|微笑《ほほえ》んだ。 「私も秀麗も、君を愛してるよ。他の誰《だ〜l》とも替《か》えのきかない、大切な家族だ。他ならぬ君が、秀麗を『任せられるLとはっきり言うのは、きっと燕青くんだけだろうね。だからこそ、私も安心できるんだよ。君の心にもすんなり入れる、稀有《け.しう》なかただしね」  つないだ手が温かくて、静蘭は素直《づ丁+なお》に領《うなず》いた。本人には死んでも言わないが、とっくに認めている。多分、あとにもさきにも、この自分よりいつだって一段上にいるむかつく男−。 「……燕青より強い男は、彼の師匠《ししよ.∴ノ》くらいしか知りません。大丈夫です、旦那様」 「君は、大丈夫かい?」   自分を心配してくれるその言葉が、静蘭には何より嬉《うれ》しい。 「はい。お嬢様を燕背に任せたままにはしませんよ。でも武官としてやるべきことをやらないと、お嬢様に顔向けできませんから」疲《つか》れ切って、気絶するように眠《ねむ》っている秀麗を見つめる。  必死で『官吏』という現実と向き合い、すべての準備が完了する今日このときまで、決して泣かなかった。陰《かげ》で何を言われても真正面から恩倒《′ふとう》されても。  泣いている|暇《ひま》など、ない。刻々と喪《うしな》われていく命を思えば、自分のことなどでかかずらっている猶予《ゆうよ》などない。緊張の糸をいっときでも切らすわけにはいかない。   それでも、心と理性は別物なのだ。   すべての準備が終わったとわかったとき、秀麗はまっすぐに府庫に向かった。   あんなふうに混乱しながら泣く姿を、静蘭は本当に久しぶりに見た。    「……やっぱり、旦那様には敵《かな》いませんか……」    「ふふふ」    「……なんですか」 「いや、今の君の顔、小さい秀鹿が起きて、近くにいた君を素通りしてまっすぐ妻に歩いて行ったときのガーソとした顔と同じだったから。変わってないなぁと思って」  静蘭はがくっと肩《かた》を落とした。    「……よ、よく覚えてますね……」 「覚えてるよ。私も近くにいたのに素通りされてガーソとしたから」    「あー……奥様には誰もかないませんから……」   静蘭は音を思い出して|珍《めずら》しく違い目をした。  期 「静蘭、秀麗は一人でも頑張れるけど、一人で生きていけるわけじゃない」  州《 「》都可は娘の頬にかかった髪をそっと払った。γ 「君も、他の誰だってね。……私は、茶州に行ってやれない」  1  毎R、府庫にくる王を思う。   《〕》この三日、彼もまた、必死で精神の安定をとろうと|葛藤《かっとう》していた。   このうえ、邵可まで消えてしまうわけにはいかない。  彼もまた、邵可にとっては大事な『子供� 「そばにいてあげることができなくても、できることはある。頼《たの》んだよ」   今の静蘭には、その意味がわかっていた。 「はい」   家人としてではなく、武官として秀麗を助けることが、静蘭にはできる。 「必ず」   はっきりとした答えに、邵可は微笑んだ。         尊さt潜壌密  夜明けー黎深《ナlし、し人》は府庫の仮眠《かみん》室で、昏々《こ人こん》と眠る秀鹿の髪をそろりと硫《す》いた。 「……黎深様」  後ろから養い子の声がかかっても、黎潔は振《ふ》り向かなかった。 「帰ってきますよ。そうしたら、また蜜柑《みか人》を贈《おく》りましょう。とても喜んでいましたよ」 「同じものは芸がないから何か他のを考えろ。今度こそ玖娘《くろう》を出し抜《ぬ》けるようなやつを」 「…………ぜ、善処します……L半蔀《はじとみ》から、濃《こ》い朝霧《あさもや》がすべりこんでくる。それを払うように黎藻はパクリと扇を《おうぎ》あおいだ。   立ち去りもせず、それでいて、はた、はたと妙《.一のトて〕》にやる気なくあおぐ黎深の少しうしろで、絳攸は歩みを止めた。 「……玖琅様から|縁談《えんだん》のお話がきたんですけど」   ばた、はた、とやはり扇がやる気のない音を立てる。   答えがなくとも、絳攸は構わなかった。 「俺は今のままで結構幸せです。紅家には伯邑《はくゆう》がいますし。……まあ、絶対ないとは言いませんが……俺も秀麗も、多分、まだまだ目の前のことで手一杯なんです」  黎深が李姓《りせい》をくれた理由もわかっている。特別に紅家当主になりたいとは思わない。終値が願うのは、ただ、拾ってくれた黎深のために在りたいということだけだ。紅家当主という座は  −黎深がどう思おうと−絳攸の中ではそのための選択肢《せんたくし》の一つであることは確かだ。もし何かのきっかけと、状況が《りしよう七−よう》整えば、なることもあるかもしれない。   けれどそれは、今ではない、先の話だった。   秀麗のために結婚《けっこん》するというのはさらに倣慢《ごうまん》だ。自分自身で道を切り開いている秀麗は、絳攸が何かをしてやらねばならないような娘《むすめ》ではない。  r涙の痕《あと》が残る秀麗の寝顔《ねがお》を見ながら、鋒牧は微笑《げしょう》した。   手を引いてやらずとも、彼女はちゃんとうしろを追ってきている。   それだけで、経仮は今のところ満足だった。 「たまに蜜柑を一緒に食べられれば|充分《じゅうぶん》ですよ」   扇の音がやむ。   ちらりと、黎深が眼差《まなぎ》しだけで絳攸を見る。 「お前の好きにすればいい」   黎深はただそれだけを言った。 「帰ってきますよ、黎深様」 「……国だのなんだの、まったく|面倒《めんどう》なものを好きになったものだし  黎深はぶつぶつと|呟《つぶや》いた。 「他のものならいくらでも贈ってあげるのに……やることがないじゃないか」 「…‥まあ、いいんじゃないですか……」  黎深的『やることがない』で今の状況なのだから、ちょうどいいと絳攸は思う。 「でも、本当にあの蜜柑は嬉しそうに食べてましたよ」 「当然だ。秀麗のために改良研究させたんだからな」   こっそり玖娘の|真似《まね》をして蜜柑を剥《L》き、四苦八苦して小さな秀麗に食べさせていた過去を思い出す。力加減がさっぱりわからず、なぜか妙につぶれてしまう蜜柑を、秀鷹がにこっと笑って黎深の指ごとちゅばっと食べたときのあの可愛《かわい》らしさといったらなかった。   ふふふふふと笑う養い親のあまりの不気味さに、絳攸は一歩退《ひ》いた。   すると急に黎深はチッと舌打ちした。 「ーなのにお前は拾ったときすでにでかくて、ちっともかわいくなかった」 「ひ、拾ったのは黎深様じゃないですか!」  騒《きわ》いだせいか、秀麗がぴくりと身じろぎした。  途端《とたん》、黎藻はカッと目を見開きー半蔀をガッと乗り越《こ》えて猛然《もうぜん》と逃《に》げていった。 (……なんであの人は……)  |挨拶《あいさつ》するいちばん良い機会を、なぜにことごとく自分で|放棄《ほうき》するのか。  とはいえ、一人残された経仮もあたふたした。この場面で秀麗と対面するのほ非常にまずいような気がした。  経仮もまた、仮眠室を慌《あわ》てて飛び出して、遁走《とんそう》したのであった。         ーヰ・−・�確e・   −寒さにぶるりと震《・∵缶》えて、秀腱はぽっかりと目を覚ました。  視界は薄暗《う寸ぐら》く、そしてうっすらと自くけぶっている。 「……?」   いまいち状況がよくわからずに、冷気が吹《ふ》き込んでくるところに無意識に目をやると、半蔀が開いていた。そこから、|煙《けむり》のように濃い霜《もや》が忍《しの一》び入る。 「……府庫…の、仮眠室……」  目とほっべたが微《かす》かにひりひりすることで、ようやく思い出した。   秀鹿は仰向《ょ蹟J■。√り》けのままで、ゆっくりと目を閉じた。   深く深く深呼吸をする。   ぐしゃぐしゃに混乱していた心は、落ち着いていた。   泣くだけ泣いて、言うだけ言って、甘えるだけ甘えて、|眠《ねむ》るだけ眠った。   心の中のものを全部吐《ょょr》きだした。 「ふ……父様にかじりついてわーわー泣くなんてほんと久しぶり……」   さんざん泣いたせいか、なんだかお腹《なか》もすいていた。 「……あーもう、どこまでも私って女の子らしさと稼がないわ……」  ・−もう、|大丈夫《だいじょうぶ》。   秀麗は仮眠用の|寝台《しんだい》から身を起こした。   今日が、出立のHだった。  ▼  書庫のほうに出て、秀麗はぎょっとした。 [なぜか 「捕庫の摘ちこちで色々な人が眠D組んでいた。        こうしよう  悠舜と柴凛はお互い支え合うようにして書棚に寄りかかって眠っていたし、全商連との交渉及《およ》び、茶家当主印を捺《お》した文をあちこちに飛ばしてくれた克洵《こくじゅん》も章子の一つに沈没《ちんぼつ》していた。  陶《とう》老師をはじめとする医師たちも連日の切開勉強に疲《つか》れ切って、床《ゆか》にごろごろと打ち上げられ